過去から学ぶ (2011年7月配信 ひとしずく516)
ひとしずく516-過去から学ぶ
わが国の公害事件の中でも、特に有名な足尾鉱毒事件。栃木県出身で県会議員や衆議院議員を務めた田中正造は、この足尾銅山の鉱毒問題 に生涯をかけて取り組 んでいました。古河鉱業、および県、政府は、遊水池を設置することで、鉱毒を受け止め、逆流する利根川の水もまたその遊水池で受け止 めて、洪水の被害を少なくすることもできるだろうという案を出し、それが実行されました。しかし、それは真の問題解決にはなりません でした。
政府(および県)は当時、富国強兵のため必要としている銅を足尾銅山で産出している古河鉱業に対して寛容な措置をとり、鉱毒に苦しむ 被害民については、見てみぬふりをしていました。本来なら鉱毒の垂れ流し停止をすべきであったのに、遊水池設置すれば、全て問題が片 付くという案に、人々の関心を向けさせました。しかし、結局、この遊水池は田中正造が懸念していたように、うまく効果をあげなかった のです。以下は田中正造の言葉です。
「誰も知るとおり、雨は、水となり山よりながれ出て、里より海に行く ものなり、もし途中低きところあれば、溜りて、充ちてはまた海に行くなり。 いま渡良瀬川を見る。途中低きところなく、流水早く海に行かんとす。これを途中に喰い止めたるを関宿の妨害工事とい う・・・県会は、この毒の沼を造ること (渡良瀬改修即ち遊水池設置)に大賛成したよしなれども、県会が何ときめても、国会が何ときめても、水の性は正直にて、公平に流れる を主義として、県会の 決めた事に従わぬ。水は自由に高きより低きに行かんのみ。たとえ国会で決めても法律理屈威信々々と威張っても、水は法律理屈の下に屈 服せぬ。水は人類に左 右されるものでない。水は誠に神の如きもので、人類、まことにへぼな人類のきめたことには、服従はしない。それ故に、水を論ずるに は、敵も身方もない。議 論して勝利を得たりとて、その勝利は議論の勝利で 、水に対する 勝利でない。川に対する勝利でない。河川はけっして無理に極めた法律規 則に従わぬものである。」(「田中正造の生涯」林竹二著)
何か、田中正造の鉱毒問題についての書物を読んでいると、現在の原発 問題とたくさんの類似点があるように思えます。そして、私達が過去の人々の苦しみの歴史からどれだけ学べているのかと考えさせられま す。
足尾鉱毒事件に拘わらず、乱伐による土砂崩れも、海洋汚染も、空気汚染も、洪水も、地球温暖化も、そして原発問題も、元々は人間が蒔 いた種が原因であり、 今、私たちはそれを刈り取っているのではないでしょうか?今さえ良ければ、自分が良ければ、自分たちと自分の国が良ければ・・・。こ うした利己的な考えや 行為が、いつの間にか自分に返ってきてしまっているのです。
聖書には「神を忘れるもろもろの国民は陰府へ去って行く。」(詩篇9:17)という言葉がありますが、私たち人類は今こそ、神抜きで 人間なんでもできると いう思い上がりを捨てて、神に立ち返る時なのではないでしょうか?そして神様が人類に下さった自然を畏怖の念をもって、感謝する必要 があるのではないかと 思うのです。勢力の強い大型台風の雨風のすさまじい音を聞きながら、神への畏れと、日頃 の神様の祝福に対する感謝の足りなさを、私自身も感じ反省しています。
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるもの がある。」(箴言14:17)