11月15日 マタイ7章21節について (ひとしずく643)「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) この聖句を、最近のひとしずく「堅固な岩に、頑丈な家を建てる」に引用しましたが、この節を読んで、ある人は「神の御心を行っていないから、自分は救われていない、天国に行けないのだ。」という印象を受けてしまったかも知れません。あるいは他の救いについて書かれた箇所、たとえば、ヨハネ3:16について、書かれた聖句に対する確信を失い、信じて救われると言いながら、一方では、行いが強調されているようで、矛盾と混乱を感じてしまったように感じた人たちもいるかもしれません。 確かにこの聖句を見ると「御心を行う者だけが天国に入る」と受けとってしまいがちです。しかし、改めて言いたいですが「救い」とはあくまでもイエス様を信じることによって頂ける神様からの恵みです。そしてこの聖句は、救われ、天国に入るためには「信仰」と「行い」両方が必要だと言っているわけではないことを覚えていて頂きたいと思います。 この聖句の前からの流れを読むと、イエス様は「にせ預言者を警戒せよ」(マタイ7:15)「その実によって彼らを見わける」(マタイ7:20)と言われ、その次に21節で「わたしにむかって、『主よ、主よ』という者が、みな天国にはいるではなく」と続いているのです。ですからこの聖句は、天国には主を信じていても行いが伴わない人は入ることができないと言う意味ではなく、主を信じていると嘘の信仰告白をして、自分の栄誉や利益のためにそれを利用しようとしている偽信者に対しての警告として言っているのです。 当時の律法学者、パリサイ人らは、神を信じ、神に従って、神の御心を行っているように振る舞っていたものの、それは偽善であることをイエス様は見破っておられました。そして主が弟子たちに言われたのがこの言葉です。 「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」(マタイ5:20) 彼らは、たくさん神を敬うような行為をしていました。ささげ物をし、断食をし、規則を守り、人目につく善行もしていたのです。しかし、それは人々の前に自分を誇るための行為であり、神と人に対する清い愛から出たものではありませんでした。 主は、律法を廃止しに来たのではなく、それを成就するために来たと言われて、「神の本当の御心を教え、それを行うこと」を人々にさせるためにこの世に来たのです。しかし人々に神の教えを宣べ伝え、彼らを導く立場にあった律法学者やパリサイ人たちがしていたことは、それとは逆に、人々をつまずかせ、神から遠ざけていたのです。お前たちのような罪人など、神から愛されてもいないし、救われることもないといった高慢な態度で。 「イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」(マルコ7:6、7) ところで、それでは「天の父の御心を行う者だけが(天国に)入る」(マタイ7:21)とイエス様が言われた、この「父の御心を行う」とは、どんなわざ、どんな行いのことを言っているのでしょう?実際、イエス様にその質問をした人がありました。 「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』。」(ヨハネ6:28、29) つまり「イエス様を信じること」それが神のわざをすることだとイエス様は答えられたのです。 救いは神からの贈り物です。これは何をさし置いても揺るがぬ真実です。しかし、ここで覚えておきたいことは、本当に信じているなら、必ず行いが伴うということです。律法学者やパリサイ人の問題は「不信仰」にありました。それゆえに神の教えである愛の行いが伴わなかったのです。彼らは聖書を熟知していたにも拘わらず「神がつかわされた者(イエス様)を信じる」ということはしませんでした。イエス様は「わたしを見たものは、神を見たのである」と言われましたが、彼らは、神が地上に現れたというのに、勝手な人の考えに基づいた不信仰な判断によって「もし神であるなら罪人に触れたり、安息日を破ったりすることはしないはずだ」などと考え、イエス様を「神がつかわされた者」として 見ることが出来なかったのです。 本当にイエス様を「神がつかわされた者」として信じるなら、イエス様の言われたことをする「行い」も伴うことでしょう。愛の神が命を捨てて、自分を救ってくれ、そして語りかけてくれ、私たちに何を望んでいるかを示された後でも、私たちはイエス様を知る前と、あるいは神を信じない人のように、何ら変わりない行いや考え方をしているということがあり得るでしょうか?本当に神から使わされた者としてイエス様を信じているなら、ただ「主よ、主よ」叫びながら、いつまでも昨日と同じことをし続けることができるでしょうか?信じているなら、それが自然と行動に現れ、語る言葉にも出るはずです。私たちの心には、イエス様とその御言葉があります。それを信じ、それによって生きること、そ れがイエス様という堅固な岩の上に、頑丈な家を建てるということだと、改めて述べたいと思います。 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブ2:26) もし、自分が神の御心を行っていないと思うところがあるなら、どうか「神を信じているがゆえの行い」の一歩を踏み出すのを主に助けて頂けるよう祈って下さい。誰も完璧な人などいません。いつも失敗ばかりしていたペテロは主からとても愛されていたことを思い出して下さい。ペテロはイエス様を信じ、水の上に足を踏み出すと、そこを歩くことができました。しかし、その後すぐに怖くなり、水に沈みかけてしまいましたが、水の上を歩くという奇跡と同時に、沈んでいく自分を引きあげて下さるという主の愛情深い御手をも体験できたのです。 「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27) このイエスさまの言葉を励ましに、信じていない者のようにではなく、信じている者のように、そして光の子らしく、光りの中を歩もうではありませんか。
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