十月二五日 神様に近い「無宗教家」たち? (ひとしずく六二〇) 「私は無宗教です」と人が言いたい理由には、何かもっともな理由があるような気がします。ある人は、もしかしたらいろんな宗教家の、どうしても好きになれない、あるいは正しいと思えない言動を目にして、それなら無宗教の方がましという結論に達したのかもしれません。 イエス様がこの地上に来られた時、主は宗教家たちのしている事に対して厳しく批判しました。律法学者、パリサイ人、祭司たちは、聖書の知識が豊富で、当時の社会を左右する権威を持っていました。そして彼らは、様々な伝統的しきたり、規則で民衆を束縛していました。民衆は彼らの許しなしには、何一つできない状態だったのです。何よりも悲しいことは、民衆は、自分たちは罪深く、神に遠く見放された存在なのだと、奢り高ぶった宗教家たちに思い込まされていたことではなかったかと思います。しかし、神から遠く離れていたのは、実は民衆ではなく、宗教家たちの方だったのです。 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」 (黙示録三章十七節) イエス様が宗教家たちに語った言葉から、彼らがどのように神から思われていたかが分かります。 「自分も神の国に入らないし、他の人も入れない」「盲人を手引きする盲人」「偽善者らよ」「あなたがたよりも、遊女や取税人が先に天国に入る」「人間の言い伝えによって神の言葉をないがしろにしている」「見栄のために長い祈りをする」「白く塗られた墓。外側は美しいが中は不正と邪悪でいっぱい」 イエス様はこのように、腐敗した宗教、伝統的しきたりと人間の言い伝えで凝り固まった宗教家たちに対して、怒りを発し、彼らは「わざわいだ」と嘆いたのです。 現代の「無宗教です」と言う人たちは、きっとイエス様が当時の宗教家について言っているのと同じような見方で見ている人たちも多いのではないかと思います。ある人は、根っから神様を認めたくない無神論者なのかもしれません。しかし、少なからぬ人たちは、神様を信じているか、神様がもしいるのなら信じたいと思っているのではないかと私は思います。ただ、現代の宗教偽善を見抜いて、そのような神様ならいらない、と思っているのかもしれません。あるいは、神様はそんなことを、人間に要求するはずがない、と心の中で知っているのかもしれません。 そうした宗教嫌いの人たちでも、イエス様がどのような方であるかを知るなら、彼らは、教会には行こうとしなくても、 イエス様のことは、好きになるのではないかと思います。そして、偽善に対するイエス様の妥協しない態度と、不正の暴露を臆せずに行ったイエス様のことを知るなら「この人こそは神の御子である」という真理を見出すのではないでしょうか? 私はふと思いました。儀式や場所崇拝、あらゆる規則やしきたりの呪縛がどれだけ自分の心と生活態度に影響を及ぼしてしまっているかに気づかずに、自分は善人への道を歩んでおり、当然神様に受け入れられるはずと思っていても、実は愛に生きていないなら、もしかしたら「無宗教家」の彼らの方が神に近く、先に天国に入る人たちなのかもしれないと。 そうした宗教的独りよがりが、かえって、人々を真理から遠ざけてしまっているなら、悲しいことです。どうか彼らが、直接、イエス様と結ばれ、真理を見出せるよう、そして躓きが取りのけられるように、主が導いてくださいますように。 そして私達、イエス様を信じている者も、「無宗教です」「宗教嫌いです」という人たちの心にある思いをさらに理解できるように、恵みが与えられますように。 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ七章二一~二三節) すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(第一ヨハネ四章七、八節)
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