信仰の法則に導かれて

十月二二日 信仰の法則に導かれて 

 「で、検査の結果はどうだった?」

 「うん、『どうしてか、脈が正常ですね…。あとは、定期検査は、来年まで来なくていいです』だって」

 お医者さんには、「どうして??」であっても、私たちには、彼らの知らない法則があることを、帰り道に家内と話していました。家内は、ずっと徐脈で心臓に問題があり、もうほとんど手術をするところでした。しかし(折よく?)彼女は、片側の顔面神経が麻痺してしまう事態になり、手術を延期する必要があったのです(今は、顔面のほうもかなり癒されました。感謝!)。

 その間、色々な信仰のテストがあり、祈りがあり、学びがあり、その病を使っての様々なローマ八章二八節の事柄が生じました(今年の一月の沖縄への旅はそんな中でなされました。この時のことは以前のひとしずくで紹介させてもらいました)。もし、彼女があれほど深刻な状況でなかったら、海外在住の長女の家族が十四年ぶりにやって来て再開すると言うこともなかったことでしょう(娘が遠く離れていても主がいかに彼女とその家族をよく世話して下さっていたか、見させてもらいました)。

 私は、信仰の法則と主の素晴らしさを讃えるにあたって、科学をけなすつもりもありません。事実、この長女の子供のうちの一人は、出生時、一キロ足らず(八〇〇グラム )で生まれた赤ちゃんでした。彼女の旦那曰く、先進技術の科学の助けが無かったら、対応できなかったと証言していました。科学は、神の創造の秩序を(法則、数値などで)説明してくれるものだと思います。この科学の探求を人を助けるため、また神への栄光のために献身的に行っている人達に祝福がありますように。そうでなかったら、今回、私の孫娘とは会うことが出来なかったでしょう。

 同時に、全てを科学で説明できるか、というとそうではありません。最先端の科学で説明できないことはたくさんあるでしょう。祈りがどう働くか、まだまだ説明できない分野です。

私たちクリスチャンが、お祈りしたから、神は答えて下さったのです、と言っても、「偶然ですよ」と答える人がいます。しかし、そうした人に「祈ると偶然はたくさん起こるんです」と答えるしかありません。

 とにかく、階段を上る力がなくて、妻を二階に負ぶったり、車いすで、公園を回ったりしたことが、嘘だったかのように、また心電図などの検査から心臓専門の病院の医師らから、手術を勧められていた妻は、今、毎日のように畑仕事をしてくれているのです。薬も使っていません。

 そしてもう定期健診に来なくていいです、正常ですからと、手術を勧めていた医師が言うことになりました。

 これは、主には、何でもできる、ということを信じる者にとっての、確かな信仰の法則によるものです。

  …わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。 (イザヤ三八章五節)

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