十月十一日 静まることの力 (ひとしずく六一五) 昨日は、友人の店「カフェ・マルシェ」にて、「ミュージック&トーク」という音楽と主のメッセージに聞き入ってもらうためのイベントをさせて頂きました。テーマは「嵐の中の平安」でした。 第一部が終わり、二時間を挟んでまた同じ内容の第2部が始まります。 店内は、第一部に参加した人や第二部に早めに来た人で賑やかでした。私も久しぶりに会えた人たちとの会話を楽しんでいました。しかし、楽しい気持ちに浸ってはいましたが、心の奥底では、どこかで静かな時間を持たなければという声が聞こえていました。そしてその時、ある友人から私の携帯にこんなメールが届いたのです。「どうぞ静まって力を得られますように」私は、これは明らかに主からのメッセージだと確信し「主よ、静まれますように!」と心の中で祈りました。そして自分の車に行き、主との交わ りの時を持ちました。すると主は、第一部で話した内容を、第二部ではいくつか変更するよう示されたのでした。考えてみると第一部と二部では参加者が違い、抱えている試練や問題も、それぞれ異なっているかもしれないのです。それは主のみぞ知ることです。第 二部では夏に出会った、被災地の東松島の人たちのことを、心に思い描いて話すべきだと主は示されました。東松島の方々を軽井沢にある友人 の別荘にお招きしてから、しばらく経っています。第一部のスピーチと音楽は録音していて、それをここに来られなかった方や、来られた方で 今本当に慰め励ましが必要な方に差し上げようと思っていました。そして主は第二部の方も録音し、そのCDを東松島の被災者の方たちに送る ことを示されたのでした。本当に素晴らしいアイデアだと思いました。その他に、主は第一部では話さなかった、私の父のことについて話すようにも示されました。その話は第二部に来られていた、幾人かの方の思いに深く触れたようでした。 このように、静まることによって主は大切なことを示して下さいました。静まることは何と素晴らしいことでしょう。第 一部はもちろん始まる前に、静まり、皆と共に集まって祈りました。そして主が示された通りに行い、奇跡的なとても実り豊かな時となりました。そして、第二部も、また第一部と同じ内容のものを話せば良いと思っていました。それは静まらなくても、できることだったでしょう。そ して、それはやはり実り豊かな時となったかもしれません。し かし、静まる時を持ち、すべて御存知である主の示された通りに従った時ほどの、最高の実り豊かさでは、なかったことでしょう。主は誰にどのようなメッセージが必要であるのかを、すべて御存知なのですから。ところで、この第一部と第二部の間、二人のミュージシャンたちも、久しぶりに会った友人たちとの会話を楽しんだ後は、ほんのわずかの時間でしたが、他の階にある小さな部屋で、静かに仮眠していました。彼らのパワーで満ちた音楽も、やはり静まり、主にあって休息することで、培われていたのだと思いました。 常に、主の御前に静まることの大切さを、改めて教えて頂けたことを感謝します。 静まってわたしこそ神であることを知れ。(詩篇四六篇十節) あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏 やかにして信頼しているならば力を得る。(イザヤ三十章十五節)
イエス・キリストの生涯-22
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