十月八日 受け取るという謙遜さ (ひとしずく六一二 改訂版)
ある人は、本当に犠牲的です。
他の人から何かを頼まれるといやと言えず、逆に人から助けを差し出されると、つい遠慮してしまうのです。
「何か困ったことがあったら、いつでも声をかけてね」 と言われても、いざ、助けをほしいと思っても、やはり相手に迷惑をかけたら悪いなとか、まだ自分でやっていけるかもしれない、自分が我慢すればいいことだ・・・などと思い、助けを求められない場合が多いのかもしれません。そして結局、負いきれないほどの重荷を一人で背負って疲れ果て、ストレスがたまり、爆発するか、病気になってしまうのです。
これは日本人によくある姿であり、私たちの誰にでも身に覚えのあることではないかと思います。
しかし、心から助けたいと思っている側から考えてみると、「なぜ、そんなになるまで何も言ってくれなかったの・・・?」と切ない思いになってしまいます。特にそれが、自分の愛する人である場合は尚のことです。大変なことはもとより、どんな小さなことでも、愛する人のためには何でもしてあげたいと思うのではないでしょうか?
私たちが、神様からの罪の赦し、救いによって永遠の命を頂いていること。これは、私たちが我慢したから、善行を積んだから、立派な行いをしたから、受けたものではありません。
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることが ないためなのである。(エペソ二章八、九節)
この聖句にあるように、「ただ神の恵み」によるの です。イエス様は、それを差し出してくださっているのです。私たちが求める先から、私たちがどれだけ惨めな状態で、救われる必要があるか を知っておられて、支払いを済ましてくださっていたのです。イエス様はご自分の命を差し出してくださいました。しかし、もし私たちが「い や、あなたの命を犠牲にしてまで、永遠の命を受け取るわけにはいきません。私など、それを頂く価値など全くないのですから。「あなたにそんなご迷惑をかけるわけにはいきません。いやいやだめです、結構です。私のことは心配しないでください。自分で何とかやってみますから。」 などと言っていたら、それこそ、哀れな状態です。自分で自分を救えると思っており、また自分で何とかできると思っているのですから。また、日頃の小さな必要に対しても、こんなことを主に祈ってお願いするのは、わがまま、あるいは贅沢ではないか、または、こんなことぐらい自分で努力して何とかするか、まあこの痛みを何とかがまんするか・・・などと考えて、主に祈らないで過ごしてしまうことがあるのではない でしょうか?
こうした態度の裏には、自分の力を過信しているところがあるのではないか、と思います。ちょうどカインが自分のやり方でどうしていけないのか、自分の肉の努力を神は正当に評価すべきだ、という態度のように。カインの捧げものは神に受け入れられず、神の望まれるようにしたアベルの捧げものは受け入れられました。(創世記四章三~七節、ヘブル十一章四節、第一ヨハネ三章十二節、ユダ一章十一節参照)
主は、私たちと正しい関係を持たれたいと思っておられるに違いないと思います。しかし、それは対等ではなく、神は神として、人は人としてであって、神と贖われた人(恵みによって救われた人)としての関係です。自分の力でどうにかなる、と思っている人には、神はそうさせてくれますが、その結果を刈り取るのも自分です。そうした生き方でいいのか、どうなのかということに気づき、神を求める必要性に気づいて、自分の心の態度と行動を改める時(つまり、悔い改める時)、主はすぐにでも助けて下さることでしょう。その時、助けを叫び求める子供に、親が助けの手を差し伸べるように、生きておられるまことの神の働きを体験し、次の聖句が真実であることを知ることでしょう。
彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、 何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒 に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ十一章五~十三節)