十月三日 その時、風が吹いたのは… (二〇一一年 ひとしずく六〇六)
その時、風が吹き放射能を乗せてこちらにやってきた。
なぜその時、風がその方向に吹いたのか神様はご存知だ。そしてその結末も。
なぜなら、その風を送られたのは主御自身なのだから・・・
家の近くの散歩していました。
農道の右側に広がる林の中には、この地域の開拓前からあったのだろうと思われる大木が立ち並んでいます。今は牧草地となって広がっている左側にも、開拓前にはこのような大木があったのでしょう。当時の開拓した人たちの苦労が偲ばれます。この見慣れた風景が、去年と違うのは、牧草地の端っこに 白いシートに包ま れた牧草の大きな塊が積み重なって、数を増していることです。放射能で汚染され、牛に食べさせることのできない牧草が山と積まれているの です。開拓した人たちの、血と汗と涙の結晶であるこの牧草地は、今や汚されてしまったのです。
「ひどい!一体どうしてこんなことが、この人たちに起らなければならないのだ!」
私には、このような光景があまりにも無残に見えて、農家の方たちのことを 思うと、いつも暗い気持ちになってしまいます。そして、ここを通るたびに、自然と思いが沈んでしまうのです。昨日はそのことで、妻に嘆き というよりも愚痴をこぼしていました。
妻は共感する代わりにこう言いました。「パパの話を聞いてたら、暗い気持ちになってきちゃった。パパは、愚痴じゃなくて、主の言葉を語るべきじゃない?」と。
私は、ハッとしました。自分は汚染されてしまった田畑 や、気の毒な農家や酪農家の人たちのことばかりに目が行っていて、全てを支配している主の御計画を見ていないことに気づいたのです。そうです。本当に妻が言った通りです。私は、今起きている悲惨な状況についての人の見方ではなく、主や主の 見解を求めるべきだったのです。私はすべての出来事に、神の御計画を見ている必要がありました。
私は最近、考えていたことがあります。今、福島原発から200キロも離れた東京や千葉などで、部分的に放射能の高い所が次々と発見されていますが、それ らは、原発事故直後の風や雨によって運ばれたものと言われています。原発は人の造り出したものなので、その事故についても人間の愚かさが 招いた仕方のないことだとしても、なぜその時、風がこのような方向に吹き、雨が降ったのかということです。神様は、風も雨も自由に操るこ とができる方です。
「わが神、主よ、あなたはいとも大いにして誉と威厳とを着、光を衣のように まとい、天を幕のように張り、水の上におのが高殿のうつばりをおき、雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りあるき、風をおのれの使者とし、火と炎をおのれのしもべとされる。(詩篇一〇四篇一~四節)と聖書にある通りに。
愛ある神が放射能を運ぶ風や雨を送るなんて、それによって汚染され、生活を脅かされている人たちのことを考えるなら、そんなこと、あるはずがないと考えてしまい ます。そのとおり神様は善なる方です。ただ、神には、私たちの思い、また悪魔の思いさえ遥かに超えた偉大な知恵ある御計画があるのです。 神様は明らかに、私たちの益になるように、これらの災いと思えるものさえ用いられるのです。
「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつく り、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。」(イザヤ四御章七節)
ヨブは、自分にふりかかった災いについて「恐ろしい事はわたしに臨み、わたしの誉は風のように吹き払われ、わたしの繁栄は雲のように消えうせた」(ヨブ記 三〇章一五節)と語りました。今までの、彼に与えられていた、財産、健康、愛する者たち、全てが、それこそ、風に吹き去られるように滅ぼされてしまったのです。
しかし、神様はどれだけの風を彼に吹かせたら良いのか、しっかりとコント ロールしていました。悪魔がヨブを試みようとする時、彼への災いの程度は「ここまで」と定めてくれていたのです。(ヨブ一章十二節、二章六節)
≪後で、福島の原発でつくられていた電気は、東京に送られていたということを聞きました。危ないことに関与しながら、都心の電気を賄っていた実態を主は知っておられます。このことで、イエス様の次の言葉を思い出しました。
ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 (ルカ十三章一~五節)
どこかの地域が禍に遭ったからといって、そこに地域の人達が特別邪悪で、罰が当たったということではない、私たちも悔い改めないなら、同じような裁きを受けることになるということです。≫
結局、ヨブは、この試練を通して成長し、また神様の心にとても近づき、つ いには、かつての何倍もの祝福を受けることになったのです。
主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に 増された・・主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた・・・この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見 た。(ヨブ四二章十、十二、十六節)
あの日、私たちに雨風を送られたのも主です。そしてその雨風も、神の御計 画の内に、それ以上でもなく以下でもなく、定められていたのです。私たちがわざわいそのものよりも、それを通して教えようとしておられる主の思いに心を留めることができますように。