四月十八日 真の神 (ひとしずく一五三五)
(今、私のいる田舎のお祭りの日が近づいています。神社のお祭りですが、天地の造り主であり、また救い主であられる神を信じている私は、どのようにかかわったら良いのか主に尋ねているところです。)
あなたはどこに隠れておられるのですか?天地を造られたあなたは、このお祭りをどう見ておられるのですか?
村の神社に祀られている神は、医学と学問の神と言われています。しかし、あなたこそ、癒しの神、あなたこそ全知の神です。
彼らは知らないであなたを拝んでいるのでしょうか?それとも、神ならぬものを神として拝んでいるのでしょうか?
本当は、祭りの中心となられる方はあなたであるのに、あなたのことは知られず、語られず、あなたのためには歌も踊りもありません。
あなたこそ、人々の幸せの源であり、命を下さる方であること、魂の渇きを癒される方です。
あなたは、この人たちが生まれたときから死を迎えるまで、共におられ、世話をし、栄えさせてこられた方です。
そしてあなたは、彼らに先祖伝来からの知恵と知識を与えて来られました。私はこの地で、彼らを通して、山のことも畑のことも、川のことも、その知恵と知識の益に与っています。
彼らは、自然に対して、また神秘的なものに対して、感謝と畏敬の念を持っているゆえに、あなたは彼らに対して忍耐をもって教えさとそうとされてきたのでしょう。
しかし、彼らは、それをあなたから与ったものであることを未だ知らずにいます。あなたはこの全てを造られた方であり、あなたは知恵の源であるというのに。
あなたを知らずして、命も愛も幸せも十分に体験することはできません。
あなたが神々の中の神、主の主であられるのをどうか知らしめてください。
あなたは手で造った宮の中に住まわれることはありません。
どうか、彼らにあなたをあらわしてください。あなたの御霊の証しを、私の狭量さ、人への恐れによって、妨げてしまうことがないように助けてください。そして、語るべき時に口を閉じるという罪を犯すことがないように。
あなたは、天地の創造者であられるのに、御自分を低くされ、人から崇められるどころか卑しめられ、低くされることに甘んじられました。そのあなたをお伝えするのに、 傲慢な態度ではできません。
彼らが生涯かけて大切にし、信じてきたものを、ただ頑迷と迷信だと、高ぶりの心で口にするのではなく、へりくだり、あなたの愛の霊によって、証しできるよう導いてくだい。イエス様のお名前で祈ります。
あなたをあがない、あなたを胎内に造られた主はこう言われる、「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、――だれがわたしと共にいたか――偽る物のしるしをむなしくし、占う者を狂わせ、賢い者をうしろに退けて、その知識を愚かにする。(イザヤ四四章二四節)
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、 その人は神のうちにいるのである。わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。(第一ヨハネ四章七~十六節)
すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。(第一ヨハネ五章一節)
<二〇二三年二月― 詩篇八十二篇は、「神 対 神々」について学ぶために、助けになります。国や地域によって崇められている異なる神々について、真の神が何を語っておられるか、神は神々(堕天使ら-被造物であるのに、現世において自らを神として人々に崇拝させ、権威をふるっている)を裁かれる。興味深い学びです>