神の時刻
「ひとしずく」ーーひと昔編
これは最近読んだ時間についてのお話です。
ある朝、電車に乗り遅れまいとして、駅に駆けつけた男性が、駅員に尋ねたそうです。
「いつ八時一分の電車が出発するんだい?」
「八時一分ですよ」
「そうか。僕の時計では七時五十九分。 街の時計は七時五十七分を指している。そして駅の時計は八時四分だが、一体私はどれを信じたらいいんだ?」
「御自分の好きな時計の時刻を選ばれたらいいでしょう。ですが、 お客さんは八時一分の電車にご乗車はできませんね。もう出てしまいましたから。」
神様の時は、どんどん刻み続けられています。大勢の人たちが、神の正しい時刻表ではなく、自分の好きな時刻表でやっていけると考えており、神様に向き直るのも、そのうち自分の好きな時にできると思っています。しかし、思っているよりも時は迫っており、気がついた時にはもう手遅れ、ということになるかもしれません。
ところで最近、ある人がこんな手紙を書いてきました。
「イエス様が再臨すると言っていても、もうイエス様が去ってから、こんなに時間が経っているじゃないか? その間に、数々の戦争が起こり、たくさんの悲惨なことも起った。しかし、イエス様は何もされなかった。だから彼をあてにすることはできない」と。
明らかにこの人の言葉から、「神は何をもたもたしているんだ! 神の言葉など信用できないし、神にはもう任せておけない!」といった神に対する批判めいた思いが伝わってきます。
しかし、言うまでもなく神様の御計画は完璧です。イエス様が自分が期待した時期に再臨されないとしても、神が約束を忘れたからでも、聖書が真実でないからでもありません。ただまだその時ではないからです。神はまだ救われていない多くの人々が、福音を耳にし、救われるのを忍耐強く待っていて下さっておられるのです。そして神様は、イエス様の再臨の最高のタイミングを見極めておられるのです。たとえ私たちの目にそれが遅れているように見えても、また何も変わらないように思えても、主の御計画は着々と進んでおり、必ず成し遂げられるのです。
ペテロが言っているように、私たちの確信をしっかり守り続けて行きましょう。
まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべての ものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言であろう。
すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
しかし、今の天と地とは、 同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。」 (第二ペテロ三章三~九、十七、十八節)