主の再臨の時  

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2023年2月25日

主の再臨の時  

「ひとしずく」ーーひと昔編

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。(黙示録一章七節) 

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(マタイ二四章三〇節)
 
私たちの主は、この地上に再臨されます。そしてその際、イエス様は雲に乗って帰って来られることが、黙示録や福音書に記されています。それは私たちがずっと待ち焦がれていた喜ばしい感動の瞬間です。
   しかし、聖句には、胸を打って嘆くのは、ある特定の「一部の民」ではなく、「地上の諸族がみな」とあります。一体それはなぜでしょう? 愛するイエス様が権威をもって帰って来られるというのに、なぜ全ての民は嘆くのでしょうか?
 私は何となくわかる気がします。残念ながら、人は、権威ある者には、頭を垂れ、敬うけれども、弱く社会から捨てられたような存在に対しては邪険な態度をとるのがよくあるのです。どの国にも弱者がいて、その大勢の人たちが、苦しい立場に置かれています。
 聖霊は、分け隔てせず、全ての者に愛と憐れみを持つように嘆願していますが、人はあらゆる理由をもって、その嘆願を無視し、払いのけて生きているのがあたりまえになってしまっているのではないでしょうか?それらの弱者に対する、大勢の者たちにとっての得策は「かまっていられない」という態度なのです。
 しかし、人の子(イエス様)が雲に乗って来られる時は、全ての人が、生涯にわたって日々のそうした(あまり気にもとめなかった)選択と決断を下して生きてきたことの総決済の時となることでしょう。
「人の子(イエス様)が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められ」る時、主は、「あなたのそばにいて『空腹で』『渇いていて』『旅びとで宿がなくて』『裸で着るものがなく』『病気』だったそれらの小さなわたしの兄弟にしたのは、実はわたしにしたのだった。反対にそれらの小さなわたしの兄弟にしなかったのは、実はわたしにしなかったのだ」という言葉の意味をはっきりと理解することでしょう。(マタイ二五章三一~四六節の要約)
   そういうわけで、主の再臨は、全ての者にとって、とても心痛いことになるのだと思います。
   しかし、覚えていてください。主は、ご自分を十字架につけて処刑しようとしていた人たちについて「彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているかわからないからです。」と父である神に祈られました。
私たちも、主イエスのその赦しに預かっています。
   私たちは、皆、小さな兄弟(あるいは子供たち)に対する忍耐や愛の欠如については同じく罪ありですが、主の尊い赦しに預かって、希望を頂いています。主の再臨の光にさらされる時、きっとさらに幾つもの犯した過ちに気づかされることでしょう。しかし、私たちは、主が、その血をもってあがなってくださり、受け入れてくださったことで、さらに感謝の涙を流す事でしょう。主は、罪ある私たちを招いて悔い改めさせるために来られたのですから。私たちは、その赦しをただ感謝して受け取り、新しく御霊の下さる神様の愛の内に歩めばいいのです。
私たちは、主の赦しの愛にまだ与っていない人たちのためにも、祈るべきだと思います。イエス様が雲に乗って来られた時に、一人でも、ひどい悲しみに遭わないような生き方ができているように。
 
  ところで「人の子(イエス様)が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」という箇所について、ある人はそんな非現実的なことはないだろう、これは 何かの象徴ではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、ヨハネは何かの比喩をここで言っていたのではないと思います。
当時イエス様と共にいた使徒たちと、また彼らと行動を共にしていた者たちは皆、死から復活したイエス様がその四十日後に天に昇っていくのを目撃していましたので、再臨の際、雲に乗ってイエス様が現れたとしても彼らは非現実的なこととは全く思わなかったことでしょう。そしてイエス様が弟子たちに「(私は)雲に乗って帰ってくる」と言っておいたことを、その言葉通りに信じていたと思います。
 使徒行伝一章にはこうあります。

・・・ こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる(再臨)であろう」。(使徒行伝一章九~十一節)
 
  使徒行伝が書かれたのは紀元六十年代頃と言われています。そして使徒行伝を書いたのは福音書を書いたルカであり、彼はイエス様と同じ時期に生きていました。 そしてそれを読んでいた人たちも同じ時期に生きていた人たちであることを考えれば、嘘の話などすぐにばれて消し去られてしまうことでしょう。
「真理にそむいて偽ってはならない。」(ヤコブ三章十四節)とヤコブが語っているように、特に当時神を信じていた人たちが偽証することなど、まず考えられないことです。したがって、複数の弟子たちの前でイエス様は、雲に迎えられて天に昇って行ったという事を、作り話だと決めつけるのは、難しいことです。これらの弟子たちは、四方八方に別れて主の昇天について、生涯、命をかけて宣べ伝えて歩くことになるのです。
ですから「人の子(イエス様)が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」は何かの比喩ではなく、その言葉通り、イエス様が雲に乗って帰ってこられることだと、私は信じています。
 
   愛するイエス様が、権威をもって帰って来られるのは、間近であることを思い、互いに励まし合い、精一杯、主の御心に生きようではありませんか。
   そして嘆きをもってではなく、ただ喜びと感動の内に、イエス様の再臨を仰ぎ見ることができますように。
   主よ、あなたがたった今、わたしの前に送って下さっておられる「隣人」の中にあなたを見ることができますように。あなたに仕えたいという心の願いをかなえるために、あなたが姿を代えて小さな者となって、わたしの奉仕を受け入れようとして下さっている人たちを感謝します。
 

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