「私の王国」 VS 「神の御国」

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2023年2月24日

 「ひとしずく」ーーひと昔編

自分の築き上げてきたもの、あるいは築いているものが危機にさらされると、私たちの反応は、非常に過敏なものとなってしまいます。しかし考えてみるなら、この地上にある目に見えるものはいつまでも続くことはありません。堅固な城壁もいつかはもろくなって崩れる時があり、良き評判も、気まぐれな人の噂によって傷つけられることになり、富や栄えは、皆つかの間です。
 この地上に築き上げたものは、それが大きく、また立派であるほど、その維持に絶え間ない努力、心労、苦労が伴います。いつ、それらのものが損なわれてしまうのかと、不安と恐怖を抱え、そのことで神経過敏になり、他の人たちとの関係にも摩擦が生じるようになってしまうのです。
 そうなると何のための人生なのかわからなくなってしまいます。自分が何にこだわっていて、それによって何を失っているのか、よく考えてみる必要があります。
 そして、自分の築き上げたものを永遠に維持しようと、躍起になることはやめて、それを手放すことです。そうすれば、それらの自ら自分に負わせた重荷と苦労も、神様のくびきにとって替えられるのです。
 手放すということは、神様の御手に委ねるということです。
  神様が聖書で、それらのことについて心配しなくていい、私が世話するから、と語っていても、私たち自身の執着や常識や、恐れとが、聖霊の囁きをかき消し、聖霊の導きに逆らって神の御心とは反対の方向へと行ってしまうのです。
 これはまさしく自分の地上の王国を築き、それをがむしゃらになって維持しようとしていることであり、永遠に至る神様の御国に貢献するということとは相反することになるのではないでしょうか?
 このことをうまく描写しているのが、創世記のカインとアベルの話だと思います。

  …アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏 せた。
  そこで、主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。 もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
  カインは弟アベルに言った、「さあ、野原に行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。(創世記四章二~八節)

 カインは、自分自身が栄えること、つまり自分の王国を築きあげることに関心がありました。そして自分の手の業を誇っていました。そんなカインは神様に対してきっとこんなふうに思っていたのでしょう。「神よ、あなたは私のこれだけの努力を認めてくれて当然です。しかし、その努力を認めないばかりか、努力も苦労もしていないあのアベルにひいきして…。だから、そんな神であるあなたに従いたくなくなるのも当然ではないのですか!?」と。
 それに対して、アベルの思いは、神の御国と神の業が栄えることにありました。きっとこんな思いだったでしょう。「神よ、あなたの国、あなたの業が栄えますように。私はただあなたの御国のために、あなたが私にするようにと言われたこと、務めを感謝してやらさせて頂きます」

 カインは、何とか神に認めてもらおうと、自分の手の業による苦労が絶えなかったのではないでしょうか。そして何よりも重荷だったのは、神様による完全な祝福の内を歩んでいないということを自分の心のどこかで感じていたことです。そのために、カインは神様に対する不従順に、いつも言い訳をしながら生きなければならなかったのです。彼が弟アベルを殺した後、神様が「弟はどこか」と尋ねた時、カインは「知りません。私が弟の番人でしょうか」(創世記四章九節)と答えていることからも、カインが絶えず、神の霊と争っていたのがわかります。
 そんなカインですが、自分のしてしまったことの故に、自分も人から殺されるだろうという恐怖を抱いていました。しかし、憐み深い神様は、カインが誰かに殺されることがないように、特別な保護を約束されました。

 私たちは、誰しも神の御心に生きたいと思ってはいても、気づけばいつしか、自分の行いによる義を立てようとして罠に捉えられて四苦八苦してしまってしていることがよくあります。それが、どうしても見えるものによって生きている私たち人間の弱さでもあります。
しかし、それに気づいたなら、直ちに、このイエス様のお言葉を思い出し、それに従ってみることです。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびき負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ十一章二八~三〇節)
 自分の力ではこの人生はどうにもならないこと、また自分でどんなに一生懸命、「私の王国」を築き上げようとしても、そこには真の幸せもなければ生きる価値もないことに、私たちは気付かなければなりません。そして、真の幸福への道である、「神の御国」を常に求めて生きて行きたいものです。
まずは自分の心が今どこにあり、何を求めているのか、それを吟味してみることから始めましょう。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ六章十九~二一節)

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