「ひとしずく」ーーひと昔編
よく、スポーツ選手が、ビデオの画像を前にトレーニングをしています。体を動かしてのトレーニングではなく、脳のトレーニング、イメージトレーニングです。優れたプレイヤーのプレーの映像を見ながら、色々な戦局において、その動きを頭にインプットし、それをイメージすることによって脳に疑似体験をさせるのです。そして自分が実際プレーする時に、イメージしたようなことができるようになるということです。
私は、このイメージトレーニングの原則は、私たちの霊的生活にも大いに役立つものだと思います。
先日、黙示録などの預言の言葉は、主の愛の賜物であるというようなことをひとしずくに書きましたが、そのような来るべき出来事について何度も読んで、インプットを受けておくこと、あるいは、心にそれらの言葉を蓄えておくことは、スポーツの場合と同様、霊の内で同じような効果を発揮してくれると思います。
黙示録を読んでいると、非常に厳しそうに見える場面が幾度も出てきます。しかし、その背後にある神様のご計画、どんな霊や御使いが動いているのか、また動こうとしているのか、その時の神の子供たちの動き、そして世界の状況、それが艱難のどの局面なのか。そして何よりも、それらの経過を経て、天国と言うゴールがあること、またその天国がどんな素晴らしいところであるのか。 こうしたインプットをしっかり受けていると、何かが起っても、目で見て、また耳で聞いて、感じるだけの判断では、簡単に動かされないのではないでしょうか。そしてそれらの状況を霊的な見方で受けとめて、信仰の態度をとることが、自然にできるようになるのだと思います。
イメージトレーニングとは、スポーツの場合は脳のトレーニングと言われていますが、霊的なことに関していえば、脳というより、思いや心のトレーニングと言えるでしょう。聖書では、この思いや心の大切さについてたくさん語られています。
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。(箴言四章二三節)
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。(詩篇一九篇一四節 )
わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。(詩篇一一九篇一一節)
「罪」とは本来「(神の)的を外す」という意味ですが、私たちが、的を外したプレーをすることなく、神様の御言葉に沿った振る舞いができるよう、常に神様の御言葉を思い描いていくというのは、イメージトレーニングをしているということになると思います。第二コリント十章五節には、「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、」とあります。
主は、私たちが抱く神様からでない思いを、打ち倒すよう働きかけておられます。
そして忍耐をもって、私たちが神様の思いを大切にし、そのとりこになるよう導こうとされているのです。そうでないなら、私たちは、神様が本来望んでいるような神や他の人を愛し、神様からの召しに生きることができないばかりか、本当の幸せや喜びを逃してしまうからです。私たちが、自分は知っていると思い上がっている高慢を捨てて、神様の思いを求めそれを受け入れ、従おうとする時、神様は、私たちの人生において、力強く働かれるのだと思います。
また、この聖句の前にはこうあります。「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り・・・」(第二コリント十章三、四節) 神に由来する力の武器とは、何でしょう?それは「神の言(ことば)」です。
・・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ六章十七節)
神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。(ヘブル四章十二節)
神の御言葉のインプットがいかに、私たちの思いと心を調整し、また神様の思いでないものを一掃し、未来に備えてくれるものであるかを、再度心に留め、霊的生活においてのイメージトレーニングを忠実に行っていくことができますように