「ひとしずく」ーーひと昔編
テレビをつけたら、全国都道府県対抗男子駅伝が生中継で始まろうとしていました。あ、これだと思って見ていると、私たちの長年の友人の息子さんが、県代表でテレビ画面に出てきました。
あの小さかったY君が、このような大会で力を競うようになったのかと思うと、とにかく夢中になって応援したくなりました。家族全員で、テレビに釘付けで、祈ったり、声をあげて応援していました。
トップグループの中でずっと走っている彼の姿を見て、ただスゴイという言葉を連発していました。彼が今までどれだけ、頑張って練習に励んできたかがわかりました。
ところで、その後、息子と私は、駅の雪かきに出かけることにしました。雪が少ない日は、朝一回で済むのですが、最近は雪が多く、一日中降りしきっているので、朝、昼夕と、一日三回雪かきに行かねばなりません。そうでないと、 たちまち駅の階段やプラットフォームには、雪が積もり危ない状態になってしまいます。
今日もかなり降りしきっていたので、私も一緒に行って息子を助けることにしました。
無人駅に取り付けられているスピーカーからは、雪のため電車が遅れているとのアナウンスが流されていました。
しばらくすると、電車を利用するために駅に一人の男性がやってきました。そして私たちとちょっとした会話が始まり、彼はその会話の中で、この地域からオリンピック出場選手が何人も出ていることを教えてくれました。ソチ冬季五輪でもノルディック複合の代表に選出されたとのことでした。
私にとっては初耳でした。なるほど、雪の多いこの辺りはスキーが盛んです。
今日、見た駅伝といい、また今聞いたオリンピック出場選手の話といい、今日はスポーツ競技の話題が多かったのですが、そんな中で、今日、息子と話していた聖句がありました。
福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。(第一コリント九章二三~二六節)
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわない で十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル十二章一~三節)
私たちは、この世のオリンピックには参加していませんし、また人の見える競技場で競技はしていません。しかし霊の内で、神様と天使たち、また信仰の先人達の見守る中、信仰の戦いをし続け、走り続けています。
それは、奉仕の質が問われる競技であり、人の審査員によって勝敗が下されるのではなく、全てをご存知の神によって審査されるものです。
愛の神は、私たちがどれだけ与えたか、また試練の中でどれだけ、神に信頼して歩み続けたか、誤解され悪口を浴びせられても、神と人に仕え続け、福音を述べ伝え、心から赦しの愛を持つことができたか、など、私たちの信仰と神への従順に応じて判断されるのだと思います。
今年もこの神様の下さった競争を、神様が望まれるように戦い、走り続けることができますように。