「ひとしずく」ーーひと昔編
裏山に稲荷神が祀られている祠(ほこら)があります。大晦日の夜、皆がお参りできるように、その山腹にある祠まで雪の階段を造り、その階段沿いに電球が灯されます。そして人々は、雪が降っていようが、白い息を吐きながらその祠にお参りに行くのです。
ところで、このお稲荷さんを祀る稲荷神社は全国各地に見られますが、その数は3万とも4万 とも言われ、総本社は、京都の伏見稲荷です。
神社の中でも大きな勢力をもっているこの稲荷神社ですが、この稲荷信仰は、和銅4年、 711年に、渡来人、秦氏によって始められたと伝えられています。秦氏といえば、中国から渡ってきた景教徒(キリスト教徒)と言われている人たちです。ですから、元々、稲荷信仰とは、イエス・キリストを信仰するものであったという可能性が強いようです。
インターネットで見つけたある記事には、「稲荷」とは、当て字で、本来は「INRI」、あるいは「JNRI」 という言葉から発しているのではないかと書かれてありました。
それによるとそのINRIの 当て字は、当初は伊奈利(イナリ)と書いたようですが後に、現在の稲荷という漢字が当てられるようになりました。
この「INRI」または「JNRI」というのは、「Jesus Nazarenus Rex Iudeaeorum 」の頭文字をとったもので、「ナザレのイエス・ユダヤの王」と いう意味です。ラテン語(当時のローマ帝国が用いていた言語)だと「INRI」となります。
イエス様が十字架につけられた時、彼の頭上には、ピラトによって書かれた罪状書き、「ナザレのイエス・ユダヤの王」とい う言葉が掲げられましたが、それと同じなのです。
また、群馬県の多胡郡には、かつて秦氏や多くの渡来人が多く住んでいたと言われており、その秦氏族である多胡羊大夫の記念碑、「多胡碑」というのがあり、その近くからイエス様の十字架像の古銅券が出土され、その表題には「JNRI」と記されていたそうです。
ちなみに稲荷神社に行くと狐の像が祀られていますが、狐は日本古来から、神様の使いとされ、神社に置かれるようになりましたが、稲荷神社とは、元々関係がなかったようです。
彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギ リシヤの国語で書いてあった。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。
ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。」(ヨハネ十九章十八~二二節)
このインターネットの記事を掲載した人は「稲荷神社はナザレのイエス神社だった」と結論づけていました。とても興味深い話でした。
(詳しくはhttp://ikuno.lolipop.jp/piramido/ka/02/p-jinjya01.htm
をご覧下さい)
しかし、もしそれが事実として認められるようになったとしても、イエス様は神社で祀られる対象ではありませんし、イエス様が本来言わんとしていることとは相違があります。
イエス様は本当の神(天地の造り主であられ、全てを司る神)は、特定の場所や神社神殿で祀られるものではないと言われました。
女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所 で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかた を礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そ うだ、今きてい る。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、 わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。(ヨハネ四章十九~二六節)
(ステパノ:)…いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。(使徒七章四八~五〇節)
神が宿られるのは、場所や建物ではなく、私たちなのです。私たちこそが、神の宿られる宮なのです。
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。(第一コリント三章十六節)
これは、イエス様と聖霊が使徒たちを通して、教えようとしておられたことでしたが、景教徒らは、ユダヤの古い宮崇拝の形式や儀式のなごりから脱することができず、また日本古来の宗教と相まって「イナリ」の本来の意味もとって変えられ、神ならぬものが神として崇められている現状に至ったのではないかと思いました。今では、稲荷神は事務所やビルの屋上など商売繁 盛のためにあちこちに祀られています。
真実の神であるイエス様こそ、父なる神を表した方で、イエス様と父なる神は一つです(ヨハネ十章三〇節)。そして私たちはその神の宮であり、聖なる神の霊が私たちに宿ってくださっているのです。
どうか私たちが神の宮として霊とまこととをもって神を礼拝することができますように。
イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守る であろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。」(ヨハネ十四章二三節)