主の御心であるなら 

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2022年12月9日

「ひとしずく」ーーひと昔編

久しぶりに会った祈りの友人たちと 楽しい食事の後で、「また御心であれば、会いましょう。そして、主が許して下さるなら、十一月のリトリート(修養会)で会いましょう」と話しました。

 リトリートを企画して、実施するために備えていくのは、御心だと確信を持っていますが、もしかしたら、実施に至る前に大地震が来て、集まるどころではないような被災を関東全域で受けるかもしれません。あるいは経済崩壊が起こり、交通機関がストップしてしまうかもしれません。あるいは火山の爆発や津波があるかもしれません。私たちは、予定を立てて、それに向けて備えても、その間に何が起るかわからないのです。自分が明日まで生きているかどうかさえもわかりません。突然、事故か病気で倒れてしまうかもしれません。実際、そういう人はたくさんいます。

私たちは、明日のことはおろか、数秒先に何が起こるかさえ知らない、時間という限られた次元に生きている存在です。ですから、最近は特に、将来の事を語る時、主が憐れみの内に許してくれるなら、と私は言うのです。

 実際、この友人たちと、別れの挨拶と祈りをしていた時、それは東京のある歩道橋の上でしたが、突然、歩道橋が震動し始めました。地震が起ったのです。何度か、揺れて収まりましたが、それはあたかも、主が私たちの言っていることを確証してくださっているかのようでした。

 私は、十一月初めのリトリートは、 主が許して開催させてくださるなら、本当に大切なものとなるだろうと信じています。しかし、その実現に至るかどうかは主の御心次第です。

 「もし主の御心であるなら・・・」 今年は、その気持ちで一年を過ごしてきました。なぜなら、私は、時がとても短いように感じるからです。「主は近い」と聖書にありますが、 それは主の再臨の時が近づいているということです。 主の再臨が近づいているということは、主の再臨前に起るはずのことが起らなければならないということです。地震、疫病、 戦争、飢饉、迫害などです。それらのどれ一つをとってみても、私たちが再会し、リトリートをすることの妨げとなるようなことばかりです。

主は、憐れみの内に、田沢湖でのキャンプ、また私達の村で学生と一緒のボランティア等、許されるならできるようにと願っていたことを、許して下さいました。しかし、私達は、実はもっと多くの「許されるなら…」を持っていました。今年の夏、海外の孤児施設の子供達を対象に英語のキャンプを、自分の子供達と一緒に助ける計画でしたが、情勢が変わり、果たすことができませんでした。

ですから、リトリートに関しても、祈る思いで、また主の憐れみを乞い願って、御心なら、開かせて頂きたいという気持ちでいます。終わりの時の艱難期を迎える前に、信仰の仲間たちが、 少しでも聖書の言葉によって備えられていてほしいと願いますし、恵みをお互いに分ち合えたらと思うからです。

 もし何も起らず、リトリートをさせて頂けたら嬉しいです。もしかしたら、主はまだこれから何度か、リトリートを開くた めの時間をくださるのかもしれません。しかし、もしかしたら、一回もできないかもしれません。リトリートを行うことは、主の御心だと思いますが、もしかしたら、主には、私たちが思いも寄らない他の御計画があるかもしれないのです。それは神のみぞ知るです。

主がどうか日々、私たちに導きを示され、それに従うことができますように。

ただ、ただ、主の御心がなされるよう、祈ります。

 ヤコブの書に、次のような言葉があります。

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、 たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。(ヤコブ四章十三~十五節)

 私達は商売のためにリトリートに加わろうとしていません。これはお金儲けに心奪われている者に対する良い警告ですが、「あすのこともわからぬ身」ということでは、私達、信仰者も、信仰を持っていない者も、全ての者は同じで す。

  マルチンルターは、明日イエス様が来ることになっても、彼は自分のしていることを続けるだろうと言ったそうです。

しかしある物事は、少し予定と計画を立てることを要します。落ち着いた生活をして初めて為し遂げることができるものが多々あります。長期にわたる計画の際には、さらに御心であるかどうかということを探らせられます。そして、主がそれを確証して下さっても、主がお許し下さるなら、という気持ちでその示されたビジョンに基づいて進んでいき、度々主との確認をとりつつ歩む必要があると思います。

終わりの時に生きるということはそのようなことではないかと思います。全ての決済の日が近づいているのですから。大切なのは、正しいゴールに、また主が示されたことに日々、従い、主に近く生きることが大切であると思います。そしてそうであるなら、主が示されたと私達が思っていることが、地震や戦争によって、達成し得なかったとしても、 思い煩う必要はないのです。

私達がこの地上にいるのは、主の御意思を果たすためであって、私達自身の意志を果たすためではないのですから。主のご計画の内にこの時代は過ぎ去ることになっています。そして新しい時代が主の再臨と共に始まろうとしているのです。そしてその前に私達は艱難期を通ることになっているのです。

「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にし なければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。」(ヨハネ九章四節)

私達は、許されるならこれをさせて頂くという思いで取り組みますが、そして主の御心であると信じるものを行うのですが、私達は、日々主にすがりつつ歩む必要があると思います。

主が、それぞれの道を照らし、導いて下さいますように。

飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。(イザヤ五八章十節)

わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すな わち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。(第一ヨハネ五章十四節)

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