聖書の基本: 聖書の重要な教理
パート1:
神学: 神についての研究
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ロバート・D・ルギンビル博士著
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ローマ11章36節-新共同訳)
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。 (黙示録1章8節)
I. 神の本質 <1>
神の本質について語ることは、神が本当は誰であるかについて語ることです。 本質とは「存在」を意味します。 本質(エッセンス)という言葉はラテン語の「存在する」という動詞に由来し、ギリシャ語のウシア(ousia)の訳語です。また「ある」という意味もあります。 存在している、また存在以上に、神はあられるのです。 神は、モーセにエホバ(またはヤーウェ)という御名を宣言され、その意味を説明されたとき、このことをすべての人に明らかにされたのです:[1]
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主[「ある」:YHVH]が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 (出エジプト3章14-15節)
神の存在や本質は、本来、崇高で輝かしいものです。 この本質的な輝きは、聖書ではしばしば光や栄光と呼ばれています。 光は、近寄りがたく清い神であられることの素晴らしさを強調します(ヤコブ1章17節; cf. ダニエル2章22節):
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。(第一テモテ6章16節前半)
神は光であって、神には少しの暗いところもない。(第一ヨハネ1章5節後半)
栄光とは、神がどのようなお方であるかが人類に目に見える形で輝いていることを強調するものであり(出エジプト33章18-23節; 列王記上8章11節; ルカ2章9節; 使徒行伝7章55節; ローマ3章23節; 第二ペテロ1章17節; 黙示録21章23節)、御子、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの栄光の啓示を通して最も顕著に示されました(マタイ24章30節; ヨハネ1章14節):
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。(ヘブル1章1-3節前半)
[1] エホバJehovahとヤーウェJahwehという二つの英語表記は、しばしば「テトラグラマトン」と呼ばれる、主の名を四つの子音で英語表記した名前です。ヘブル語では、yhvh(יהוה)は伝統的に「アドナイ」と発声されますが、旧約聖書では母音がありません。これらの節で「私はある/なる」に基づくものとして説明されている「主」という神名は、ヘブル語の動詞「ある」または「なる」(この二つの動詞はヘブル語では非常に近い)のいずれかに由来する可能性があります。同様に、יהוהという形は、(「わたしはある/なる」のように時間に関係なく繰り返される動作を表す)不完了体と(動詞の意味を一度に要約する、つまり「ある/なる」の本質を示す)絶対不定詞を掛け合わせたような独特の形です。このように、ヘブル語の文脈と動詞の形から、「御名」とは、主が時間や現象に関係なく、有り、存在することの宣言であることは十分に明らかです。Q.E.D.<証明終わり>
<2>に続く