イエス・キリストの救いの御業-パート13

イエス・キリストの救いの御業-パート13

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 <xiii>

9. 和解 : 聖書の和解の教えは、救われることを神との関係の回復とみなしています。 私たちは皆、「アダムにあって」霊的に死んで生まれてくるので、つまり、私たちは皆、肉体的な誕生によって罪の性質を持っているので、私たちが本来持っている罪深さに従って確実に罪を犯してしまうので、私たちは皆、私たちの霊の父である神(へブル12章9節)から引き離されて(コロサイ1章21節)生まれてくるのです。しかし、放蕩息子の父親が彼を心から愛し、彼が帰ってきたときに大喜びしたように(ルカ15章11-32節)、私たちの天の父も私たちの理解を超えて私たちを愛しておられます。 そして、私たちが主のもとに戻り、主の真の息子と娘のために用意された恵みと祝福に再びあずかることができるように、私たちのために最善を尽くしてくださったのです。私たちが神と和解するためには、私たちがこの世から離れ、へりくだって悔い改め、信仰を持って神のもとに戻ることを望まなければならないだけでなく、神はまず罪の問題を解決しなければなりませんでした。つまり、私たちが神と和解するのに適した者となる前に、私たちが義とされ、神に受け入れられるための手段が提供されなければならなかったのです(すなわち、和解の前に義とされなければなりません)。

神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書(すなわち、私たちの個人的な罪の記録)を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 (コロサイ2章14節)

この教えでは、罪はいわば障壁を形成し[1]、神聖な神と私たちを隔てるものとなります。それは敵意と迫り来る怒りの壁であり、私たちの罪を完全に正しく裁くことによってのみ取り除くことができます。

(14)キリストはわたしたちの平和であって、[ユダヤ人と異邦人]二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、(15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて[この]平和をきたらせ、(16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、[神と人間との間の]敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。(17)それから彼は、こられた上で(すなわち、初降臨のとき)、[神から]遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。(18)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。(エペソ2章14-18節)

このように、父との和解の前提条件は、イエス・キリストの体において、世界の罪に対する十分かつ完全に効力のある裁きによって、言葉では言い尽くせないほどの祝福とともに遂行されました。敵意と迫り来る怒りの壁を取り払い、恵みと平和の扉を開いたのは、私たちの救い主の血潮です。

(8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(9)わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって[近づいている]神の怒りから救われるであろう。(10)もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。(11)そればかりではなく、わたしたちは、今や和解[をとおしての新しい関係]を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。        (ローマ5章8-11節)

和解の象徴において、イエスは、私たちの抱えている負債を支払うためにご自身が死なれることによって、私たちに神との平和をもたらしました。そうすることによって、私たちは生まれながらにして神の敵であった存在から、神の家族の一員へと変えられ、私たちを創造された愛に満ちた父の寵愛の下に戻ることのできた息子や娘となったのです。

(19)神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、(20)そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。(21)あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。(22)しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。 (23)ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである[そうすれば-あなたがたはそのようになる]。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。           (コロサイ1章19-23節)

私たちは生まれながら罪人であり、かつては神の敵でしたが、イエス・キリストの血と、十字架上で私たちのために払われた犠牲を信じる信仰によって、神と和解しました。その結果、かつて私たちが恐れていた神の怒りは、今私たちが義と認められたことへの確信へと置き換えられました。今は、神との敵対関係に代わり、神ご自身に近づくことができ、(ローマ5章1-2節; エペソ2章18節, 3章12節; ヘブル4章16節; 第一ペテロ3章18節)御子のとりなしによって父なる神との平和を得ています。

(1)このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(2)わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望(すなわち、復活の期待)をもって喜んでいる。(ローマ5章1-2節)

父なる神ご自身が、この和解のプロセスを開始されました。神は、ご自身がなし得る最大の犠牲を払って、迷える羊たちをすべてご自身のもとに引き戻そうと努力され、また、戻ってきた私たちに、かつて私たちを隔てていた怒りと敵意の障壁をキリストが取り除かれたので、イエス・キリストの賜物を受け入れ、キリストと和解する意思さえあれば、過去の罪に対する怒りの代わりに、神は私たちを愛をもって受け入れてくださるという福音を広める力を与えてくださいました。            

(18)しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。(19)すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音(字義どおりには、「言葉」)をゆだねられたのである。(20)神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。(第二コリント5章18-20節)

御子はまた、私たちと同じような真正の人間になられたという文脈の中で、和解の代理人であるとも言われています。さらに、和解を達成するために必要なこととして、次の節で暗示されているように、人間性を引き継ぐことが必要でした(私たちの罪のために死ぬために、神は人間にならなければならなかったからです)。

(5)しかし[実際には]彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義(字義どおりには、「罪過(複数)」)のために砕かれたのだ。彼はみずから[要求された]懲しめをうけて、われわれに[神との]平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 (イザヤ 53章5節)

(14)このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それら[同じ要素]をそなえておられる(すなわち、処女から生まれ、罪を犯さなかったというだけではなく)。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、(15)死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つ[ご自身と和解させる]ためである。(ヘブル2章14-15節) 

イエスは神と人類の仲介者です。なぜなら、彼だけがそうなる資格があるからです。 イエスは真の神であり、常にそうであっただけでなく、受肉以来、真の人間でもあります。 そのため、両者を代表し、和解を実現することができるのです。 主はこの和解を私たちに申し出、それを受け入れた私たちは主の申し出を世に宣べ伝えますが(第二コリント5章18-20節)、この申し出は、私たちが御父のもとに戻るために、つまり、十字架上で私たちの罪をその身に負い、私たちの身代わりとなって死なれたことによって、被侵害者の立場であられた神は、イエスが自ら支払った身代金によって完全に和解され、私たちは父のもとへ戻ることができたのです。       

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた… (第一テモテ 2章4-6節前半)

これが、主が言われたように、私たちが神との回復された永遠の交わりの新しい契約、「わたしの血によって」(ルカ22章20節; 第一コリント11章25節)に入る方法であり、すなわち、主が言われたように、私たちの身代わりとなられたイエスの死を基とした信仰によって、父と和解することです。

(11)しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司として[天に]こられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、(12)かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血(すなわち、主の霊的な死)によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(13)もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、(14)永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(15)それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。(ヘブル9章11-15節)(参照:ヘブル12章24節


[1] R.B. Thieme Jr.著『The Barrier』(ヒューストン、1977年)を参照。

<パート14に続く>

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