イエス・キリストの救いの御業-パート12

イエス・キリストの救いの御業-パート12

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 <xii>

8. 義認  義認は、神が今、もはや、罪に染まり罪に溺れる者としてではなく、キリストの血によって真に義とされ、罪から清められ、永遠の命を信じてキリストに信仰を置いた者としての私たちとどのような関係にあるかを教えています。

主は、わたしたちの罪過のために(すなわち、私たちを罪から贖うために)死に渡され、わたしたちが義とされるために(すなわち、彼の死によって義とされた私たちもよみがえるために)、よみがえらされたのである。 (ローマ4章25節)

このように、義認とは、信仰によって義とされ、イエスの犠牲によって与えられた贖いに応え、イエスの復活を共に待ち望む私たち信仰者のためのものでもあるのです。 ローマ人への手紙8章にある「義認」とは、神の救いの計画の中で、私たちがキリストの血によって神のもとに戻ることを選び、キリストが与えてくださった贖いを受け入れるという決断をすることです。

(28)神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(29)神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟(姉妹)の中で長子とならせるためであった。(30)そして、あらかじめ定めた者たちを更に[救いに]召し、召した者たちを更に(キリストを信じる信仰によって:ローマ4章1-5節, 4章25節, 5章1節参照)義とし、義とした者たちには、更に(私たちの将来の復活と永遠のいのちの)栄光を与えて下さったのである。(ローマ8章28-30節)

義認の教理は、私たちが今持っている義、つまり、私たちがイエス・キリストと結ばれていることによって、私たち自身の偽りの義ではなく、私たちのためのイエスの贖いのわざを受け入れることによって、私たちが罪のすべての汚れから洗われたことによって、私たちに与えられる神ご自身の完全な義を、位置的に表現しています。

(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって(字義どおりには:罪から「買い戻されて」)義とされるのである。(25)神はこのキリストを立てて、その血による[達成によって]、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された[すべての]罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、(26)それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、[この点において]神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ3章23-26節)

これらの聖句が示すように、すべての罪がキリストの犠牲によって贖われたからこそ、私たちがイエスを信じ、神と一体となった時、神は私たちを「義」と正当に宣告されることができるのです。信じる私たちは、神の責め苦の下にいるのではなく、キリストの御わざを受け入れ、キリストと一つになることによって、神の目から見て「義とされ」、義とみなされるのです。

(1)こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。(2)なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(3)律法が[罪深い人間の]肉により[かかって]無力になっているためになし得なかった事(罪の問題を解決すること)を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪の[償いの]ためにつかわし、[神は]肉において[すべての]罪を[キリストにおいて]罰せられたのである。(4)これは律法[による完全な義]の要求が、[罪深い]肉によらず霊によって歩くわたしたち(すなわち、信者)において、満たされるためである。(ローマ8章1-4節)

この聖句の最後の節が示しているように、義認はまた、私たちが原理的に(すなわち、「位置的に」、つまり、「キリストのうちにいる」ことによって)今持っている完全という新しい地位に従って生きること、敬神的なクリスチャンとしての道を歩むこと(ローマ8章4節, 6章4節, 6章13-20節; エペソ5章8節; 第一ヨハネ2章6節を参照)、過ちを犯したときに、罪を告白して私たちの「義の」位置に伴う赦された者としての生き方をすること(第一ヨハネ1章9節; 参照.ゼカリヤ3章3-4節; 第一ヨハネ1章7節; 黙示録3章18節参照)、私たちの主への愛に満ちた応答によって、「義の実」を実らせること(ピリピ1章11節; ローマ7章4節; エペソ5章9節; コロサイ1章10節; ヤコブ3章17節参照)を、私たちに求めています。 義認がなければ、「神のために」なされたと言われるすべてのことは、実際には罪に汚されており、それゆえ、神には全く受け入れられないのですが、私たちは今、イエス・キリストの義を分かち合うことによって、罪からきよめられ、義とされ、正しいとされたのです。そして今、主に受け入れられるクリスチャンの務めの良いわざを生み出す自由があるのです(エペソ2章10節)。

このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法(すなわち罪;第一ヨハネ3章4節参照)からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス2章14節)

このように、義認とは、信じるすべての人に対する赦しの宣告です。 神は私たちが以前は汚れていたにもかかわらず、今は私たちが 「白い衣を着て」(私たちが最終的にいつもそうであるように:黙示録3章4-5節, 4章4節, 6章11節, 19章14節)、小羊の血によってきよめられたのを見ておられます(黙示録7章14節; 未信者とは対照的:マタイ22章11-14節)。

主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう(つまり、あなたを吟味して裁こう)。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。(イザヤ1章18節)               

王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていない(すなわち、キリストを信じる信仰によって得られる義をまとっていない)ひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。 (マタイ22章11-14節)

(13)長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。(14)わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。(黙示録7章13-14節)

私たちは生まれながらにして基本的に不義であり、罪によって死を宣告され、神から疎外されており、自らを清める手段を持っていませんでしたが、御自身の死によって私たちを罪から解放して下さったイエス・キリストを信じることによって、私たちは今、私たち自身の本質的な不義の代わりに神の義を受けて「信仰によって義と認められた」のです(ローマ1章17節, 3章22-24節, 3章28節, 4章1-25節, 5章1節, 5章9節, 5章16-21節, 8章30節, 9章30節, 10章4-6節; 第一コリント1章30節, 6章11節; 第二コリント5章21節; ガラテヤ2章16節, 3章24節; テトス3章7節)。私たちの頭上に突きつけられていた死の宣告は打ち消されました。なぜなら、死の刑罰は私たちの主というお方に対してすでに執行され、私たちは主の死を私たちの身代わりとして感謝して受け入れたからです。 御父の義は、私たちに代わって御子が死刑を宣告されたことで完全に満たされたので、御父は私たちを義と認め、「私たちが行った義のわざ」(テトス3章5節)によってではなく、私たちのために罪となられた義なるお方への信仰によって義とされたのです。

(3)わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、[むだに]迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。(4)ところが、[以前のわたしたちの罪深さにかかわらず]わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが[肉において]現れたとき、(5)わたしたちの行った[いわゆる]義の[どんな]わざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。(6)この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。(7)これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

                (テトス3章3-7節)

ですから、償いがイエス・キリストによる私たちの罪からの買い戻しを表わし、贖いがキリストの死によって私たちに対する罪の束縛を断ち切られたことを表し、義認は私たちが罪からきよめられ、神の目から見て清くなったことを表しているのです。私たちに代わってキリストが身代わりに死んでくださり、私たちがそれを受け入れることによって、私たちは神の正義の裁きにおいて義とみなされるのです。

(9)それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、(10)貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。(11)あなたがたの中には、以前は[まさに]そんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、[きれいに]洗われ、きよめられ、義とされたのである。(第一コリント6章9-11節)

  この「罪からのきよめ」という義認の側面は、キリストの犠牲のゆえに、私たちに対するすべての罪状が取り除かれるというもので、聖書のいたるところに見られます(例えば、イザヤ43章25節; 第一コリント6章11節; コロサイ2章14節; 第一ペテロ1章2節; ヘブル9章13-21節; ヘブル12章24節)。これは「ヨハネのバプテスマ」として知られる水のバプテスマにおける主要なメッセージであり、神に立ち返る真の悔い改めによって罪を洗い流す象徴的なものでした(使徒行伝19章4節; 使徒行伝1章5節, 11章16節参照)。 十字架の後、神がなさることに基づく象徴的なきよめだけでなく、神がキリストにおいて私たちの罪をさばき、キリストの血のきよめの力に基づいて私たちを赦してくださった結果として、私たちは今、本物のきよめと赦しを得ているのです。

(1)神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、(2)この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。(3)御子は[御父の]神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。(ヘブル1章1-3節)

(19)兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく[天の]聖所にはいることができ、(20)彼の肉体(ヘブル10章10節参照)なる[天的隔ての]幕をとおり、[その犠牲によって]わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、[祈るために恵みの御座に(ヘブル4章16節参照)]はいって行くことができるのであり、(21)さらに、神の家を治める[この]大いなる祭司があるのだから、(22)心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い[御言葉の(エペソ5章26節参照)]水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。(ヘブル10章19-22節)

これは、神が私たちと「犠牲によって」(詩篇50篇5節)結ばれた「新しい契約」であり、イエスが私たちのために死んでくださったこと(私たちがその業とそれに伴う赦しを受け入れること)によって、私たちを赦し、義とみなされるのです。

(12)わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない(エレミヤ31章34節)」。(13)神は、「新しい[契約]」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。(ヘブル8章12-13節)

要するに、義認とは、私たちが何をしたかに基づくのではなく、私たちに代わってキリストが成し遂げてくださったことに基づいて、神に関する限り神の義を持つことを意味します。イエス・キリストを信じた時、私たちは義と認められ、イエス・キリストと一体となった者として義とみなされるのです。 義認は、私たちがイエス・キリストを通して神のもとに行こうとするとき、最初に求め、受ける祝福された恩恵です。 私たちが神の正義によって義とみなされれば、イエスを通して天国のすべての祝福への扉が開かれるからです。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ6章33節)

(7)しかし、わたしにとって[以前の神のない生活において]益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。(8)わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのもの[わたしが失ったすべてのもの]を、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、(9)[モーセの]律法に[従うことによる]よる自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。(ピリピ3章7-9節)

<パート13に続く>

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