イエス・キリストの救いの御業-パート11
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <xi>
7. 贖い:
贖いとは、キリストが十字架上で私たちの命の代価を払ってくださった結果、私たちが罪の束縛から解放されたことを表す教義です。 アダムの血筋に生まれた私たちの共通の結果として、すべての人間は霊的に死んで生まれ、罪の性質を持っています。 贖いの教えから見ると、人類はこの罪によって束縛されており、キリストが私たちに代わって働いてくださらなければ、逃れることも自由を得ることもできないように描かれています。
イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。(ヨハネ8章34-36節)
すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。(ローマ3章9節)
わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の[束縛の]下に売られているのである。(ローマ7章14節)
贖いはラテン語で「買い戻す」(re-emo)という意味です。[1] 旧約聖書では、この考えを表す二つの語根(パダハ、פדה とガアル、גאל)があり、どちらも文字どおりの買い戻しに用いられます(ただし、罪からの贖いという象徴が常に根底にあると主張することもできます:出エジプト6章6節, 13章13節;申命記7章8節; レビ記27章13節; 詩篇49篇7-8節参照)、また、罪からの明確な贖いにも使われます。 後者の場合、私たちが神の救出なしに拘束されている束縛から、神が信者を解放してくださることを表現するのに使われ、ほとんど前者と区別がつかないほど同義です:
(7)イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがない(パダハ)があるからです。(8)主はイスラエルをそのもろもろの不義(すなわち、罪)からあがなわれ(パダハ)ます。(詩篇130篇7-8節)
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたを(罪から)あがなった(ガアル)から。 (イザヤ 44章22節)
新約聖書では、私たちを罪から解放するために向けられたキリストの働きには、概念的に密接に関連した二つの表現があり、それらはギリシャ語の語彙に反映されています: 1) [より一般的な]比喩的な身代金を払って、他の容赦のない力 [語源:lytr-, λυτρ-] から私たちを取り戻すこと。(例えば:マタイ20章28節; ルカ1章68-69節, 2章38節; ヨハネ8章31-38節; ローマ3章24節; 第一コリント1章30節; 第一テモテ2章6節; 使徒行伝7章35節参照)[2]、そして、2)奴隷状態から私たちを買い取る[語源:-agoraz-, ἀγοραζ-] (例えば、第二ペテロ2章1節; ガラテヤ4章5節)。 この二つの考え方は明らかに非常に似ており、実際に使われているギリシャ語の語源に関係なく、この概念に関わるすべての単語を同じように訳す聖書も珍しくありません(つまり、英語の「redeem(取り戻す)」や「redemption(贖罪)」のような形で訳されています)。
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった(すなわち、私たちを「贖った」:エグザゴランゾ)。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」(申命記21章23節)と書いてある。 (ガラテヤ書 3章13節)
わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるし(すなわち、「贖い」:アポリュトロシス)を受けているのである。 (コロサイ1章14節)
これらすべての場合において、身代金や贖いの代価を支払う貨幣は「キリストの血」(ローマ3章24節; ガラテヤ4章5節; 第一コリント6章20節, 7章23節; ヘブル9章15節; 黙示録5章9節参照)、すなわち、私たちの罪の刑罰を支払い、償いを成し遂げたイエスの霊的な死です。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その(キリストの)血によるあがない<英文:身代金を払う>、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。(エペソ1章7節)
したがって、キリストの血は、贖罪に関する詳細な議論から切り離すことはできません。私たちを罪から贖うのはキリストの血だからです(ヘブル9章12節参照)。私たちは「奴隷」であり、死と罪の宣告を受け、地獄の業火に向かい、差し迫った肉体の死も、必然的に続く永遠の死も、誰かが介入しない限り、防ぐ方法も手段もありません。 神は正義であり、罪を見過ごすことはできません。 しかし、神は憐れみ深いお方でもあり、その大いなる憐れみによって、私たちが罪人であるにもかかわらず、救われる道をお考えになりました。神は、そのひとり子を罪深い肉の姿で世に遣わし、肉において罪を裁きを受けるようにされたのです。それは、私たちが救われるためです。(ローマ8章1-4節)。 このようにして、イエスは御自身の血をもって私たちの贖いの代価を支払われたのです。この支払いがなければ、私たちは道に迷い、原理的にすでに断罪され、自分で支払うすべのない代価で束縛されていました。父なる神の正義は、完全な身代わり、すなわち、しみも傷もない小羊、私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストによってしか和らげることができなかったからです。 しかし、幸いなことに、御父の正義は、イエスが私たちのために十字架で支払ってくださった罪の身代金の代価によって満たされていて、イエスに信仰を置く者は皆、贖われたのです。
(18)あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、(19)きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。(第一ペテロ1章18-19節)
上記の箇所やすべての贖いの箇所が示唆するように、代価は全人類のために支払われましたが(すなわち、贖罪と償いはすべての人に共通するものです。なぜなら、キリストの血はすべての人間の罪の代価として有効だからです)、実際の贖いという行為は、それを求める人のためだけに成し遂げられます。 贖いは罪に向けられたものであり、罪は信仰によってのみその支配を解かれるからです。 つまり、神はイエス・キリストによる無償の贖いの提供をすべての人に与えておられますが、贖われるのは信者だけなのです。このことは、贖罪の箇所が信者に向けて書かれている理由だけでなく、この教義が教えられているいくつかの箇所が、贖罪の結果として得られるイエス・キリストと信者との特別な関係を強調している理由も説明しています。(第一コリント1章30節; 第二ペテロ2章1節参照):
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 あなたがたは、[尊い]代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。 (第一コリント6章19-20節)(第一コリント7章23節参照)
彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (黙示録 5章9-10節)(参照:黙示録14章3-4節)
従って、贖罪の教義が、キリストにあって罪から霊的に解放された私たちの現在の立場に言及している一方で、キリストの花嫁の一員としての私たちの究極的な地位、私たちが今住んでいるこの罪の体からの復活による肉体的解放、そしてそれに伴う永遠の報いについてもまた時折言及していることは驚くべきことではありません:
これらの事(25-27節のしるしと不思議)が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。 (ルカ21章28節)
(23)それだけではなく、[来るべき良いことの前触れとして]御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれること(=復活)を待ち望んでいる。(24)わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。(ローマ8章23-24節前半)
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐこと(すなわち、わたしたちの復活と報い)の保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、(永遠において)神の栄光をほめたたえるに至るためである。(エペソ 1章14節)
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、[将来の]あがないの日(すなわち、復活の日)のために、聖霊の証印を受けたのである。 (エペソ4章30節)
要するに、贖いの概念では、キリストにある神は、私たちが罪によって捕らえられている咎、罰、もつれの下から私たちを買い取ってくださるということです。贖いは、苦難のしもべであるキリストの御業です。キリストは、私たちの命と引き換えにご自分の命を捧げることによって、私たちを罪と死の束縛から解放し、その使命を果たされました。恩恵は、それを信仰によって受け入れなければ有効ではありません。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 (マルコ10章45節)(参照:マタイ20章28節)
わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。 (黙示録 1章5後半-6節)
[1] 「d」は語呂合わせのために加えられたもので、語根の一部ではありません。
[2] ここで重要なのは、贖いと、ヘブル語の「償い」という語彙が意味する「身代金」との違いです。身代金は、第一義的には神と神の正義(文字通り)に対して支払われるものですが、新約聖書の贖いの教えにおいては、ここでは比喩的に罪に対して支払われるものです。
<パート12に続く>