イエス・キリストの救いの御業-パート10

イエス・キリストの救いの御業-パート10

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 <x>

6. 償い:  父なる神は、すべての人間の罪のために死なれた御子の十字架上の御業に完全に満足されています。その結果、神の正義に関して、罪はもはや救いの障害となる問題ではなくなりました。なぜなら、十字架にかけられる前は、神は完全な義において罪深い人間を受け入れることなど決してできず、私たちの存在を許容することさえできなかったからです(この事実は、神自ら地上から第三の天へと一時的に「亡命」されたことを説明しています)。十字架の後、神は、誰でも、すべての人を、息子や娘として神の家族に温かく迎え入れてくださいます。つまり、神の御子の救いを信じるすべての人を、ということです。人類の堕落後、イエスが十字架にかけられる前の人間に対する神の恵みは、いわば「信用取引」で与えられていました。それは、イエスが私たちのためにカルバリ山でされるであろうことを先取りしたものでした。(ローマ3章26節参照)。事実上、私たちが罪を犯していたために神が私たちを嫌い、私たちに距離を置かれていたのに対し、今ではキリストの十字架を通して、父なる神は私たちに微笑みかけておられます。なぜなら、イエスが私たちを救う上で問題となる罪を永遠に取り除いてくれたからです。実際、これから見ていくとわかりますが、この聖書の教えを表現するギリシャ語は、ほぼ正確にその内容を言い表しています。しかし、この教義は、ヘブル語やギリシャ語以外の派生語で一般的に「なだめ/償い」、「償い」、「贖罪」などという言葉で呼ばれていますが、これらはそれぞれ、キリストが罪に対して成し遂げた業によって神の正義が満たされるという概念の側面を明らかにしているものです。    

プロピティエイション(Propitiation宥め/償い)とエクスピエイション(Expiation償い)はラテン語で、アトーンメント(Atonement償い)は英語です。プロピティエイションpropitiationはプロpro(「〜の代わりに」)とペトpeto(「求める」)から来ています。 従って、プロピティエイションの語源は、キリストが私たちのために御父に赦しを求める(そして、そのような赦しは、キリストが私たちの罪のために死なれたことに基づいています)という考えを思い起こさせます。 エクスピエイションの語源はエクスex(「完全に」)とpio(「なだめるように正しいことをする」-英語の 「ピオスpious」の語源である「ピウスpius-『信仰深い』の意」)です。 このように、エクスピエイション(償い)という言葉の語源は、キリストが受け入れ可能な行為や犠牲によって御父の態度を効果的に変えるという考えを思い起こさせます(そして、その行為とは、私たちの罪を消し去ったキリストの死であると私たちは理解しています)。 最後に、アトーンメントatonementの語源は純粋に英語の構成語です: 「アット・ワン・メントat one -ment」 です。 したがって、この語源は、私たちが神と「一つになる」という考えを表しています(そして、私たちは、この和解のための手段が、私たちに代わって流されたキリストの血であると理解しています)。 もちろん、最後の言葉、アトーンメントは特にそうですが、最初の二つの単語もある程度そうであるように、これらの単語の実際の用法は、一般的な英語でも、神学的な英語でも、しばしば解明よりも混乱を招くほど複雑になっています。というのも、ここで検討されている教え、すなわち、父なる神はキリストの業による義において満足しているという教えが表現されるにはすでにやや曖昧な言葉であるのに、頻繁に無理な解釈を施したり、時にはその本来の意味を完全に無視した形で用いられているのが見られるからです:御子が罪のために死なれたこと、すなわちキリストの血は、救いに関して、罪という障害に事実上終止符を打たれたのです。御父は、私たちのすべての罪はキリストによって完全に償われたと考えておられるからです。

この概念(私たちの罪の代価の支払いとしてイエスの犠牲を喜んで受け入れる神の正義)を教えるために使われるギリシャ語とヘブル語の語彙が異なる方法でこの問題にアプローチしているのは事実です。この事実が、英語言語における用語の不一致を招いているのかも知れません。ヘブル語では、「贖罪の日」である「ヨム・キプール」(כפר)に代表されるように、贖罪を表す動詞は「カプハル」(כפר)が主流です。この言葉の語源にある重要な考え方は、身代金の意味です。従って、宥め、償い、贖罪とは、神の義の要求を満足させ、喜ばせ、なだめるのに十分な、受け入れ可能な身代金を支払うことであり、私たちの罪は支払う必要のある負債なのです。 言い換えれば、文字どおりの動物の血が儀式的な贖罪に必要な手段であるように、キリストの象徴的な血は実際の贖罪に必要な手段なのです。 前者<儀式における動物の犠牲>では、私たちの罪を償うための私たちの命のための身代金の支払いは、(非常に生々しい方法で)単に表されるだけですが、後者<キリストの犠牲>においては、神の正義が私たちの死を要求する罪は、神の正義をなだめる適切な身代金、つまり私たちの代わりにキリストが死んでくださることと引き換えに、本当に取り除かれるのです。

(6)彼は[罪を犯した者は]その償いとして、あなたの値積りにしたがい、雄羊の全きものを、群れの中から取り、これを祭司のもとに携えてきて、愆祭として主にささげなければならない。 (7)こうして、祭司が主の前で彼のためにあがない(כפרカプハル; 英語で「アトーンメント」;新共同訳は「代償のささげ物」)をするならば、彼はそのいずれを行ってとがを得てもゆるされるであろう」。(レビ記6章6-7節)

私たちの咎の行いが私たちを打ち負かしたとき、あなたはそのあがないכפרカプハル;英語で「アトーンメント」)をしてくださいました。(英文訳:詩篇65篇3節)

上記の箇所や贖罪の日の場合、英語の「アトーンメントatonement」という単語は、自分の責任に課された罪の罰を満たすという意味を表しています。 これらの場合にも、同様に「make propitiation for」、「make expiation for」、「pay ransom for(身代金を払う)」と訳すことができます。なぜなら、これらすべてのカプハルcapharの用法において、同じ中心的な考え方が存在するからです:罪とその罰に対する満足のいく支払いは、赦しをもたらします。 私たちの罪が贖われ、その罰から私たちを解放するために受け入れられる身代金の代価が支払われると、父なる神は私たちの罪を理由に私たちに敵対することはもはやなく、私たちに対して慈悲深く接してくださるようになります。主は、愛する御子によって私たちの罪のために支払われた代価、すなわち私たちのための御子の死に満足されているのですから。これを神学的に言えば、「償い」です。

(12)「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べる時、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金(ヘブル語では名詞のכפר)を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。(13)登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。(14)二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主二この奉納物を納める。(15)あなたがたのたましいのために宥めを行おう(ヘブル語כפר, 動詞)と、主に奉納物を納めるときには、富む人も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい人もそれより少なく払ってはならない。(出エジプト30章12-15節)

ヘブル語では、さらに明確です。つまり、身代金の代価(copher、כפרの名詞形)を支払うことと、それが達成するアトーンメント/プロピティエーション/エクスピエーション(cipper、動詞כפרのピエル形)との直接的な関係です。 この最後の場合、すべての人に全く同じであると強調されている金銭の代価は、すべての罪の赦しという神の完全な正義の要求を満たすのに十分な赦しの「<代償>硬貨」であるキリストの血を表しています。

償いの原則を教えるために用いられるギリシャ語の語源は、罪を取り除くことよりも、むしろ、キリストの犠牲が父なる神の私たちに対する態度を変える上でどのような影響を与えたかに重点を置いています。つまり、ギリシャ語の語彙は、神の義憤を私たちのために「宥める」または「和らげる」ことで、キリストの働きをより重視しているのです。とはいえ、この二つの考え方は、まったく同じコインの裏表に過ぎず、本当は一つであると断言できます。 それは、ギリシャ語の語彙がヘブル語のその対応する語彙と直接的かつ意図的に結びついているからです。契約の箱の上部にある金でできた堅固な部分は、しばしば「慈愛の座」と訳されますが、ヘブル語では「カポレト」(これもכפרから来ています)と呼ばれ、ギリシャ語では「ヒラステリオン」(ἱλαστήριον; ローマ3章25節; ヘブル9章5節; 出エジプト25章17-22節; レビ記16章13節(ギリシャ語七十人訳)参照)と訳されています。 ここは贖罪の日に、民全体の「罪の償うため」に犠牲の血が注がれた場所です(レビ記16章34節; ヘブル9章7節)。契約の箱はキリストの型であり、蓋のケルビムは父とその父のおられる所を表し(出エジプト25章22節参照)、契約の箱の蓋の上の血(民の罪の表象が含まれていた:ヘブル9章4節)を見下ろし、そのいけにえに満足されたのです[1]。ヒラステリオンという語は、ヘブル語のカポレトと成り立ちが類似しています。 しかし、ギリシャ語の語根、ヒラhila- (ἱλα-)は身代金ではなく、喜びと関係があり、特に人に帰属する場合は、喜びに満ちていること、または喜びに満ちて配置されていることと関係があります(英語の「ヒラリティhilarity」を参照)。  言い換えれば、ギリシャ語では、(ヘブル語の用語の場合のように)キリストの血の支払いによって帳消しにされた罪に焦点を当てるのではなく、身代金の支払いによってもたらされた結果、つまり、私たちの罪に対する以前の敵意の代わりに、私たちが今、御父から享受している好ましい恩恵に焦点を当てています。 言い換えれば、ヘブル語のプロピテイション(償い)の語源(כפר)が「身代金」という手段に注目するのに対して、ギリシャ語のプロピテイションの語源(ἱλα-)は「宥め」という結果に注目します(身代金が受け入れられると認められる場合)。 この意味は、新約聖書に登場するこの概念に関連するすべてのギリシャ語の語彙に明らかです:

『神様、罪人のわたしに寛大に(文字通りには「喜んで」[ヒラスティテ –  ἱλάσθητι])、耳を傾けて下さい』(英語訳:ルカ18章13節後半)

(25)神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがない [ヒラステリオン – ἱλαστήριον] の供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、(26)それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ3章25-26節)

各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで[ヒラロン–  ἱλαρόν]施す人を愛して下さるのである。 (第二コリント9章7節)

そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなう(字義どおりには、「なだめすかす;ヒラスケスタイ – ἱλάσκεσθαι])ために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 (ヘブル2章17節)

わたしは、彼らの不義をあわれみ (字義どおりには、「なごむ」[ヒレオス– ἵλεως]) 、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。(ヘブル8章12節)(エレミヤ31章34節後半の引用と翻訳)

彼は、わたしたちの罪のための、[神の]あがない(宥め;ヒラスモス – ἱλασμός)の供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。 (第一ヨハネ2章2節)

(9)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。(10)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物(字義どおりには[神の義憤に対する]「なだめ」 [ヒラスモン – ἱλασμόν])として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(第一ヨハネ4章9-10節)

罪は、堕落以来人類を苦しめてきた問題です。 しかし、イエスの血の身代わりによる償い(プロピテイション)によって、御父の義憤は永遠になだめられ、鎮められました。 キリストの償い(アトーンメント)のおかげで、罪はもはや私たちを捕らえることができなくなりました(主の御業を受け入れる私たちは「贖われた」のです; イエスの償い(エクスピエーション)の御業のゆえに、罪に対する聖なる神の怒りは、もはや私たちを霊的な死において神から引き離す打ち破れない障壁はありません(イエスのもとに来た私たちは、神と「和解」したのです。) 

イエスがどのようなお方であり、十字架上で私たちのために何をしてくださったのかが、私たちの信じるすべてのものの中心であり、私たちが存在するすべてのものの中心であり、神がこの世界で行ってきたこと、そしてこれからも行われることのすべての中核なのです。救い主イエス・キリストの尊い血、すなわち私たちの罪のために霊的に死んでくださった十字架上の御業は、創世記の呪いにきっぱりと終止符を打ち、御声を聞こうとするすべての人に天国への扉を開いてくださいました。私たちが無力で絶望的な運命にあった間(罪のための完全ないけにえが、罪を完全に裁く方に完全な効果を及ぼさなければ、赦されることはないからです)、御父と御父の聖なる義は、今や御父の唯一の愛する御子の死によって満たされました。カルバリの十字架の祭壇の上で御子のいけにえとして捧げられた代償の香りは、御父に対する甘い香りとなり、御父によって受け入れられ、私たちに代わって御父をなだめることができるのです(第二コリント2章 14-15節; ヘブル7章27節; 創世記8章21節; 出エジプト29章18節, 29章25節; レビ記1章9節, 1章13節, 1章17節参照)。

また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 (エペソ5章2節)


[1] 幕屋、その備品、その儀式の類型については、「来たる艱難期」第2部B、「天上の序曲」および「サタンの反逆」パートI、II.5.b「幕屋の図解」で詳しく説明されています。

<パート11に続く>

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