イエス・キリストの救いの御業-パート6

イエス・キリストの救いの御業-パート6

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 <vi>

5.  キリストの霊的な死 :

また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。(エペソ5章2節)

神への「かんばしい[いけにえの]香り」という言葉は、御父がイエスのいけにえを喜ばれたこと、つまり、私たちが救われる前にまず私たちの罪の代価をすべて支払うという神の義の要求を満たすために、それが効果的であり、あるいは「有効であった」ことを明らかに示しています。しかし、もしここで主の死について使われている「いけにえとささげ物」と「香り」という言葉が、律法の動物のいけにえの象徴を思い起こさせながらも、実際には(主の体はレビ人のいけにえのように「喜ばせる香り」を生み出すように焼かれなかったので)主の肉体的な死や、(救いは主が霊を捧げる前に成し遂げられたので、 また、彼は血を流して死ななかったので、明らかに)文字通りの血として理解されるように意図されたものではありません。代わりに同様に象徴的に理解されることを意図しています(これは明らかにそうです)。そして、問題は、「では、これらの言葉は正確に何を表しているのか?」ということになりますが、この質問に対する答えは、上で示唆したように、「キリストの血」は、十字架を予表する旧約聖書のすべての象徴を要約した言葉であり、私たちの主が暗闇の中で十字架の上で私たちの罪を負い、罪のあがないとして支払われた刑罰、つまり主の霊的な死を意味します。 しかし、「霊的な死」とはいったい何を意味するのでしょうか? この質問に対して、L.S.チェーファー博士は次のようにコメントしています:

霊的な死に関して、キリストがどこまでその領域に踏み込まれたのか、明確には示されていません。 もちろん、キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました(マタイ27章46節)。神が沈黙しておられるところに、敬虔な心は立ち入ることをためらうべきです[1]

一般論として、チェーファー博士の慎重な姿勢に同意し、私たちが救われた主イエスの罪のための死については、地上にいる私たちには知ることのできないことがたくさんあることを認めつつも、聖典はこのテーマについて(遠回しにではあるものの)かなりの情報を提供していると言うこともできます。 宇宙の歴史の中で、イエスの死以上に重要な出来事はなく、それによって私たちは単なる肉体的な死よりも悪い運命から救われるのですから、この問題をできる限り完全に調査しないのは、私たちにとって怠慢と言わざるを得ません。ですから、ここでは、言うべき以上のことを言わずに、言えるだけのことを言うのが私たちの仕事です。

a. キリストは霊的に死なれた: これは繰り返し述べるに値する重要なポイントです(上記Ⅰ.5.l.2.1-3節参照)。主の肉体的な死は、主がこの世の罪のために裁かれた後に、人間の霊を吐き出して命を捨てられた時に起こったのです(マタイ27章50節; マルコ15章36節; ルカ23章46節; ヨハネ19章30節)。私たちがここで学んでいるのは、イエスが私たちの罪のために刑罰を支払われたこの暗闇の中での裁き、すなわち、私たちの罪が赦される結果をもたらした、キリストの血として知られるイエスの「霊的な死」です。

これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 (イザヤ53章12節後半)

おのれを低くして、[わたしたち全ての者のために]死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ2章8節)

上記のような箇所では、「死」は肉体的な死ではなく、霊的な死を意味します。 私たちのすべての罪に対する裁きを受ける主の霊的な死は、主が人間の霊を捨てて息を引き取られた時点では、もうすでに起こっていたのです。 イエスが十字架の上から強調された言葉、テテレスタイ!、「完了した!<新改訳Ⅳ>」(ヨハネ19章30節;ギリシャ語: τετέλεσται) というイエスの十字架からの力強い宣言は、迫力のある力強い勝利の宣言であり、イエスの血によって勝ち取られた救いのすでに完成された事実を強調しています–物理的な出血死ではなく、私たちの罪の代価と罰を支払うことによる霊的な死のために命を注ぎ出されたことです。[2]

(28)それから(すなわち、世の罪のために受けられた肉体的な苦しみと霊的な死の後)、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書[の中の救いの預言]が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(29)酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。(30)イエスは酸いぶどう酒を受けると、「(救いが)[今]完了した[3]と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネ19章28-30節)

霊的な死は人類にとって常に問題であり、肉体の死は霊的な死の結果であって、その逆ではないからです(すなわち、つまり、アダムとエバは、「あなたは、きっと死ぬであろう」という罰の木の実を食べた後、死に向かいながらも何年も生きました。霊的な死は即座に訪れ、やがて肉体的な死が訪れ、イエス・キリストの神の恵みによる救いがなければ、最後には永遠の死が訪れます)。[4] 私たちの代わりに霊的に死なれることによって、私たちの主は宇宙の歴史上最大の勝利を収め、私たちを悪魔から解放し、そうでなければ確実に待ち受けていたであろう断罪から救ってくださいました。

(13)あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで[霊的には]死んでいた者であるが、[父なる]神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。(14)神は、わたしたちを責めて[神との関係を]不利におとしいれる(わたしたちの罪深い性質や個人的な罪という)証書を、その規定もろともぬり消し、これを[障害物として]取り除いて、十字架につけてしまわれた。(15)そして、[神は十字架によって]もろもろの[悪霊の]支配と[彼らの権力の]権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。(コロサイ2章13-15節)

b. キリストは私たちのために霊的に死なれた: 私たちが現在巻き込まれているこの目に見えない争いにおいて、悪魔とその手先に勝利した十字架の大勝利は、私たちのために戦い、勝ち取られたものです。 私たちが、イエスが十字架上で私たちのためにしてくださったことの結果として、私たちに注がれる神の限りない恵みの受け手であり、受益者なのです。 イエスは私たちのために霊的に死なれ、その死によって私たちは救われたのです。その死によって、神の聖性と私たちとの間の関係を邪魔するものとしての私たちの罪は、永遠に取り除かれたのです。

(6)わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、<わたしたち不信心な者たちのために死んで下さったのである。(7)正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。(8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5章6-8節)

(14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。(15)そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(第二コリント5章14-15節)

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 (ガラテヤ2章20節)

[イエス・キリストは]このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法(すなわち罪;第一ヨハネ3章4節参照)からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス2章14節)


[1] 組織神学(ダラス、1948年)第8巻、115ページ。

[2] 参照. ヘブル 7章28節, 10章14節, 11章40節 この動詞は、主の完成された御業についても用いられており、これらのテレオteleoの形はしばしば「完全なものにする」と訳されています。

[3] 前述の通り、この声明は、実際にはメシアの詩篇第22篇の最後の節、第31節の「彼(神)が成し遂げたのだ!」という言葉を言い換えたものです。

[4] 「聖書の基礎:罪に関する聖書学」の第3部B、1「死の三つの側面」参照。

<パート7に続く>

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