イエス・キリストの救いの御業-パート5
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <v>
4. キリストの血: 上記I.5.l.2.2項「キリストの血」で説明されているように、私たちの罪のために死なれた私たちの主の有効な贖罪の働きは、主が肉体的に生きている間、私たちのために闇の中で耐え忍ばれたことにあります(すなわち、私たちの罪を裁かれるために私たちの身代わりとなって主が霊的に死なれたこと。次の項を参照)。ですから、ゴルゴダに暗闇が下る前に、私たちのためにイエスが受けた肉体的な苦しみは計り知れないものであり、真の感謝を超えるものでしたが、その暗闇の中で、世の罪のために、私たちが十分に推し量ることもできないような霊的な死を遂げられたイエスの耐えられた激しい苦しみは、その事前の苦しみをはるかに凌ぐものであったに違いありません。キリストが私たち皆のために贖いを与えてくださったこの業、この死は、聖書では「キリストの血」と呼ばれています。
聖書を通して、血が命の象徴であるのは、血が致命的に流されるとき、命が終わるという非常に単純で理解しやすい理由からです。これが、動物の血を摂取することさえ禁じられている理由です。なぜなら、血は生き物の命を表しているからです。また、これは「血の罪」の原則を説明するものでもあります。血を流すことと命を奪うことは同じことだからです(創世記9章4-6節; レビ17章11節; 申命記12章23節; 参照.創世紀4章10節)。 この原則は、「ほとんどすべてのものは血によって清められ、血を流さなければ赦されない」(ヘブル9章22節)モーセの律法の下で発展しました。生け贄の血が赦しを得るために必要であったのは、動物の血に不思議な力が宿っているからではなく、生け贄として流された動物の血が、私たちが赦され救われるためには、死(すなわち、失われた命を表す血)が必要であること、私たちに代わって身代わりの死が必要であること、誰かの血が私たちの罪を贖ってくれることが必要であることを、非常に強力かつ象徴的に示してくれるからなのです。
(7)やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。(8)アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。(9)彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。(10)そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、(11)主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。(12)み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(13)この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。(14)それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。(創世記22章7-14節)
創世記22章の上記の箇所は、モーセの律法が定めた動物のいけにえの儀式だけでなく、私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリストの十字架上の身代わりのいけにえを、はっきりと、揺るぎなく予見しています。 イエス・キリストこそ、「神がご自分のために備えてくださる」(8節)「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)なのです。
(18)あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、 (19)きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。(第一ペテロ1章18-19節)
(6)わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。(7)小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。(8)巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。(9)彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、(10)わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。(11)さらに見ていると、御座と生き物と[二十四人の]長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、(12)大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。 (黙示録5章6-12節)
すべてのクリスチャンにとって、これが比喩であることを明確に理解することは非常に重要です。 イエス・キリストは文字どおりの「小羊」ではありませんし、私たちが救われるための「血」も文字どおりの血ではありません。 旧約聖書の初めから、血は命を表し、その血の喪失は死を表していたように、私たちの愛する主イエスが十字架上で私たちのために犠牲となった場合、聖句の言う「血」とは、イエスが私たちに代わって命を捧げられたこと、つまり、イエスが十字架上で暗闇の中で霊的な死を遂げ、それによって私たちの罪をすべて「洗い流された」ことを指しています(すぐ後のII.5節参照)。 この比喩を用いることによって、新約聖書は、十字架上のキリストの真の犠牲と、来るべき真の有効な犠牲を予表する律法の象徴的な犠牲とを密接に結びつけているのです。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主の(すなわち、「みこころ」)み旨が彼の手によって栄える。(イザヤ53章10節) (10)
聖書の中で、「キリストの血」ほどひどく誤解されている比喩はほとんどありません。しばしば、誤った教義(「全質変化説」が最も有名ですが、それだけが唯一のものではありません)という形で非常に深刻な結果を招いています。「キリストの血」は聖書では常に象徴であり、決して文字どおりの血を指すものではありません。 「神の小羊」(ヨハネ1章29節; 第一ペテロ1章19節; 黙示録5章6節, 13章8節)の象徴と同様に、文字通りに受け取ることはできませんし、そうすべきではありません。 これは、私たちの主がゴルゴダで私たちのためにしてくださったことを軽視しているのではありません。 むしろ、私たちを死と地獄から取り戻すために主がなさったことを正しく理解することは、まずこの比喩の本当の意味を理解することによってのみ得られるのです。「キリストの血」とは、イエスの十字架上の救いの御業を象徴的に要約した言葉であり、私たちに代わって犠牲となったイエスの死は、モーセの律法、そして幕屋とその調度品、それに付随する動物のいけにえにおいて最も明確に予表されています。旧約聖書の信者が「しみも傷もない」動物を捧げたように、それは完全なキリストの姿であり、これらの動物が流した血は、ご自分の命を捧げられたキリストの尊い犠牲を表しています。動物はキリストを象徴しています(そのためキリストは「神の小羊」と呼ばれるのです)。動物の血は、キリストが私たちのためにご自分の命を捧げられたこと、キリストの霊的な死を表しています(そのため、この死は「キリストの血」と呼ばれています。流された血は命が失われたことを象徴しているからです。) ヨハネはその福音書の中で、イエスが十字架上で血を流して死んだのではないことを、非常に意図的に記しています。 イエスは犠牲が終わると、自らの意志で霊を「吐き出された」だけではありません。(出血による死亡ではないことを明らかにするために:マタイ27章50節; マルコ15章36節; ルカ23章46節; ヨハネ19章30節)ヨハネは、肉体の死後もイエスの血は体内にとどまっていたことをはっきりと証言しています(ヨハネ19章33-35節; 第一ヨハネ5章6-8節参照)。 ですから、私たちが救われるのは、イエスの文字どおりの血によるのではなく、私たちの罪のために身代わりに裁かれ、その刑罰を受けたイエスの真の苦しみによるのだということ、つまり、私たちのすべての罪のために断罪され、罰せられたイエスの霊的な死によるのだということを理解することが、クリスチャンにとって非常に重要なのです。 それこそが「キリストの血の意味するところ」であり、血は生命の喪失や死を表します。 「キリストの血」をこのような事実に基づく聖書的な言葉で理解することで、私たちはイエスが私たちのためにしてくださったことへの感謝の気持ちを深めることができ、それを損なうことはありません。
(1)イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、(2)すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。(第一ペテロ1章1-2節)
振りかけられた血の象徴は、旧約聖書のいけにえからも取られており、具体的には、神がご自身と来たるべき御子のいけにえについて教えるためにイスラエルの民の間で制定された儀式から取られています。 モーセは「契約の書」(出エジプト記20-23章に要約されているモーセの律法)を読み終えると、「酬恩祭」のいけにえを捧げさせ、その血をすべて集めさせました。 そして、モーセはこの血をすべての民に振りかけて、「見よ、契約の血である」と言いました。 この血は、(旧約聖書のすべてのいけにえに見られるように)激しい死を表します。そして「契約の血」という言葉は、誰かの死によってイスラエルの民が神と特別な契約を結んだことを意味しています。この事実は、モーセが動物のいけにえの血をすべての民に文字通り、振りかけたときに目に見える形で劇的に描かれたのです。これは、私たちにとっては少々ショッキングなことのように思えるかもしれませんが、そうなるように意図されていたのです。キリストが十字架上で払われた犠牲は、私たちが想像できる以上の大きなものでした。私たちはキリストを助けるために何もしていません。私たちは、いわば神の血を「振りかけられた」だけなのです。私たちは、キリストを信じ、私たちに代わってキリストの業を受け入れるとき、キリストの犠牲の死の恩恵を受けます。 しかし、私たちの罪が「洗い流された」この犠牲は、(私たちの主は決してなさらなかった)「出血死」よりもはるかに大きな意味を持つことを理解することが極めて重要です。それは、私たちの罪すべてに対して裁きを受け、その代価と罰を支払うことを意味します。 それが「キリストの血」の意味するところであり、私たちに代わってキリストが霊的な死を遂げることで、私たちは火の池が結末となる怒りと裁きから解放されるのです。 私たちが聖餐式の杯を飲むとき、血や本物の血を表すものを飲んでいるのではありません:
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(マタイ26章28節)
<パート6に続く>