イエス・キリストの救いの御業-パート3

イエス・キリストの救いの御業-パート3

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 <iii>

3. 無制限の贖罪<a>:

すべての人が救われることが神の願いであり(エゼキエル18章23節; マタイ18章14節; ヨハネ12章47節; 使徒行伝17章27節; 第一テモテ2章4節; 第二テモテ2章24-26節; 第二ペテロ3章9節; 参照.哀歌3章33節参照)、この救いの使命を果たすためにこそ、神はご自分の唯一の愛する御子を世に遣わされました。

(16)神はそのひとり子を賜わったほどに[お捨てになったほどに]、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(ヨハネ3章16-17節)

わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。(第一ヨハネ 4章14節)

ですから、私たちの主がすべての人のために死なれたのは、すべての人が救われるためであることは驚くことではありません。そして実際、イエスはすべての人のために、かつて息を吸ったことのあるすべての人間のために死なれたのです。

彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。(第一ヨハネ 2章2節)

このように、キリストの十字架上の犠牲は、全人類の罪の罰を贖うものとして、完全に有効でした。ですから、キリストの十字架の御業のゆえに、救いは例外なくすべての人に与えられるのです。

神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書(すなわち、私たちの個人的な罪の記録)を、その規定もろともぬり消し、これ(神と私たちの間の障害となるもの)を取り除いて、十字架につけてしまわれた。(コロサイ2章14節)

キリストの犠牲は神のご計画の礎です(詩篇118篇22節; イザヤ8章13-15節, 28章16節; ダニエル2章34-45節; マタイ16章18節; 第一コリント10章4節; 第一ペテロ2章4-8節)。神の永遠の定めに従って実際に展開される歴史のすべては、十字架が前提となっています(エペソ1章9-11節; コロサイ1章17-20節; 第二テモテ1章9-10節; マタイ21章42節; ローマ5章6節, 8章29-30節; 第一コリント8章6節; エペソ2章20-22節; 第一ペテロ2章6-8節; ヘブル9章26節参照)。書かれた言葉の中のすべての聖句は、究極的には、神の生ける言葉である方、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御業に焦点が当てられています(ヨハネ5章39節; ヨハネ1章1-14節; ヘブル1章1-4節; 第一ヨハネ1章1-4節; 黙示録1章2節, 19章13節参照)。それゆえ、天使や人間が創造される前に宇宙の礎の前に定められた神の永遠の計画において、神は、信仰において、あるいは、この自由意志の規定がもたらすであろう、多くの人々の側からの神への拒絶において、被造物の自由意志が行使されることを予見しておられました。神の計り知れない慈悲と知恵により、そのような被造物の反逆(最初はサタンの反逆、次に人間の堕落に見られる)によって生じる死と損失に対する解決策が与えられました。すなわち、御自身の御子の血による堕落した人類の贖いであり、御子の御姿と御業を受け入れようとするすべての人が受け入れられるのです。罪のために私たちが死ぬという問題の解決は、イエスが私たちの罪のために死なれたことであり(ローマ6章10節)、最終的に、最も恐ろしい敵である死そのものを打ち負かすことになります。信じる者すべてにとって、死は生命に飲み込まれるでしょう。(イザヤ25章7-8節; 第一コリント15章26節, 15章54-57節; ヘブル2章14節)。 イエス・キリストの十字架は全人類のために、罪という不可能な問題を、それが私たちの主が世に代わって死なれる前に犯されたすべての罪の場合であっても取り除かれたのです:

<パート4に続く>

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