イエス・キリストの救いの御業-パート2
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <ii>
2. 私たちに代わるイエス・キリストの身代わりの死: 大まかに言えば、神の完全な正義はすべての罪に対する償いを要求し、私たち人間には永遠の刑罰を受ける以外の方法でその償いを提供することはできないため、神ご自身が言葉では言い尽くせないほど大きな慈悲と優しさをもって、身代わりの存在、すなわち神の愛する御子であり、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。 このため、イエスが私たちのために死なれたことにより、救いは全人類に提供されていますが、イエスというお方と、その御業を信仰によって受け入れない限り、確実に有罪判決を受けるという状況は変わりません。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名(すなわち、このお方)を信じることをしないからである。(ヨハネ3章17-18節)
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。(ヨハネ3章36節)
イエスは私たちの身代わりとなって死なれましたが、私たちは確かにイエスを必要としていました。私たちは支払うことのできない負債に直面していましたが、その負債は神の完全な御性質のゆえに支払われなければなりませんでした。 この負債を支払う資格があるのは完全な神の御子だけであり、それこそが救い主が私たちのためにしてくださったことです。私たちのために十字架で死なれ、罪を贖ってくださったのです。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(マタイ26章28節)
(25)神はこのキリストを立てて、その血による[によって達成され]、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって[すべて]見のがしておられたが、(26)それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ3章25-26節)
(6)わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たち(わたしたち)のために死んで下さったのである。(7)正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。(8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5章6-8節)
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり(すなわち、聖書の言葉が成就して)、わたしたちの罪のために死んだこと、(第一コリント15章3節)
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。(第二コリント5章21節)
キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。(ガラテヤ1章4節)
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ2章20節)
また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。(エペソ5章2節)
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(第一ペテロ2章24節)
このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法(すなわち、罪; 第一ヨハネ3章4節)からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス2章14節)
<パート3に続く>