イエス・キリストの救いの御業-パート1

イエス・キリストの救いの御業-パート1

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

II. イエス・キリストの救いの御業 

1. 救い主の必要性 : このシリーズのパート3B「ハマルセオロジー:聖書における罪の研究」のI.1.1.1,「霊的死」で説明されているように、アダムとエバの堕落以来、人間一人ひとりが罪の中に生まれ、その結果罪を犯しているという事実について、聖書ははっきりと述べています。永遠の観点から見ると、神の助けなしには、私たちは皆、差し迫った裁きと刑罰という絶望的な状況にあります。

主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。(創世記 6章5節)

人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。(ヨブ15章14節)

主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、(詩篇 103篇3節)

                 善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。(伝道の書 7章20節)

(20) [イエスは]さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。(21)すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、(22)姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。(23)これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。(マルコ7章20-23節)

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。(ローマ1章18節)

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(ローマ3章23節)

このようなわけで、ひとりの人(すなわち、アダム)によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして(すなわち、アダムがその罪の性質を肉体的に受け継いだことによって)、すべての人が(明らかに)罪を犯したので、(すなわち,普遍的な罪は普遍的な霊的死をもたらして)死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ5章12節)

(17)そこで、この(罪を犯す)事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。(18)わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。(19)すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(20)もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。(21)そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。(22)すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、(23)わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。(24)わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(ローマ7章17-24節)

(1)さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(2)かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君(すなわち、悪魔)、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(3)また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲(すなわち、罪の性質)に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(エペソ2章1-3節)

(5)だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は[事実上]偶像礼拝にほかならない。(6)これらの[故意に不従順な]ことのために、神の怒りが下るのである。(7)あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。(コロサイ3章5-7節)

そして、一度だけ死ぬこと(すなわち,最初の「肉体的な」死)と、死んだ後さばきを受けること(すなわち、「第二の死」,黙示録2章11節, 20章6節, 20章14-15節参照)とが、人間に定まっているように、(ヘブル9章27節)

つまり、私たちは生まれながらにして霊的に死んでおり、「怒りの子」であり、私たち自身の力や能力をはるかに超えた奇跡的な介入がなければ、神の裁きと刑罰の執行を待つばかりなのです。そして、まさにその介入こそが、イエス・キリストにおいて神が私たちにしてくださったことなのです!

(9)神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得る(すなわち、復活する)ように定められたのである。(10)キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。(第一テサロニケ5章9-10節)

救い、すなわち、永遠の刑罰からの解放と永遠の命の提供は、望みのない私たちにとって、世界史上最も驚くべき出来事によってもたらされました。それは、事実上、この出来事は歴史に刻まれるべきものであり、神の視点から見ると、私たちの代わりに、私たちのために死に至るまで犠牲となられたイエス・キリストによってもたらされたのです。

<パート2に続く>

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