イエス・キリストの生涯-72
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
キリストのセッション(着座)<ii>:
「座せよ」というセッションの申し出は、父が息子とその働きを正式に受け入れたことを意味します。これは、真実においては決して疑われることのないものでしたが、厳格な神の正義の観点から、この時点まで保留されてきたものです。
(7)わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。(8)わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。(詩篇2篇7-8節)
この詩篇2篇7-8節も同様に、御子が初めて神の御座の前に来られた時、御父が御子の働きに公式の神の承認印を押されたことを描写しています。 「きょう、わたしはおまえを生んだ」と訳されているこの言葉は、この聖句のセッションに関する文脈では、本質的に、「今日、わたしはあなたをわたしのものと宣言した」という意味です。私たちはこの言葉を、キリスト誕生の預言的な適用(ヘブル1章5節, 5章5節参照)に加えて、御父が御子とその働きを正式に認めた(使徒行伝13章32-33節参照)という意味でもさらに適用されると見なすべきです。諸国と全世界の所有とは、教会時代がその役割を終えるや否や、主が主張される千年王国を指しています。なぜなら、イエスが父なる神の計画を初臨において成功裏に完了されたことは、全人類の歴史上の転換点であり、悪魔の反乱(下記参照)を征服し、人類を罪から解放したからです。キリストの再臨は、この勝利を父なる神が正式に受け入れ、承認したことを意味し、それによって、これから訪れるすべての祝福への道が開かれるのです。
(1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(ヘブル12章1-2節)
さらに、使徒行伝2章36節で、ペテロは、主イエスが十字架上で勝利を収めたことを受け、父なる神が彼を「主とキリスト」として任命したと述べています(使徒行伝5章31節参照)。つまり、「(世界を統治するために)油を注がれた主」です。これは、キリストがサタンの世界支配に取って代わっただけでなく、父なる神の代理として世界の統治を受け入れたことを意味しています。 したがって、イエス・キリストの時代は、十字架を待ち望む以前の社会と、十字架を振り返る現在の状況との間の正式な分岐点となります。十字架の勝利が完全に達成され、正式に認められたことで、救世主は栄光を受けます。歴史を変えるほどの偉業の恩恵と成果は、すべて即座に発揮されるか、あるいは預言的に差し迫ったものとなります。それは、救世主だけでなく、私たちにも当てはまります。
1) 栄光の現われ : 神として、神の栄光は私たちの主イエス・キリストの神性の親密で取り除くことのできない特徴です(イザヤ40章5節とヨハネ12章41節の比較)。 主は常に無限の神の栄光を持ち、これからも持ち続けます。
(1)初めに言[イエス・キリスト]があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2)この言は初めに神[父]と共にあった。(3)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1章1-3節)
ですから、ここで問題になっている栄光の現れは、主の人間性に関係しています。十字架の勝利と、キリストが御父の御座に御父と共に着座されたことを御父の御前で正式に認められる前は、この神の栄光は覆い隠されていました。一方では、イエスは十字架上で私たちのために死ぬことによって私たちを 罪から救うために低められ、栄光の無い状態で人生を体験されなければなりませんでした(すなわち、I.5.e「ケノーシス」の原則を参照)。もう一方では、主イエスの人間性の面にとっての栄光の現れは、私たちの主イエスがなさったすべてのこと、特に私たちのために十字架上で死なれたことを御父が承認されたことの現れとして聖書に記されています。そのため、地上でのご自身の使命に必ず従う人としての主に対して、公然とした、目に見える形の栄光の現れが必要でした。
(31)さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(32)彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。(ヨハネ13章31-32節)
父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。(ヨハネ17章5節)(参照:ヨハネ12章28節)
この栄光の現れの最も目に見える第一の側面、すなわち、天地創造の前からキリストが神性において持っておられた栄光が人間性において現されるのは、キリストの新しい姿においてです。 復活の後、イエスが弟子たちに現れた時でさえ、その姿は特別に栄光に満ちたものではありませんでした。 しかし、昇天とセッションの後、私たちの主はすべての場合において、神の栄光を肉体的に現しています(マタイ16章27節, 17章2節, 24章30節, 25章31節; マルコ8章38節, 9章2-8節, 9章29-31節, 13章26節; ルカ9章26節, 21章27節; 第一テモテ3章16節; ヘブル1章3節, 2章9節; 第一ペテロ4章13節)。
(13)王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。(14)わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。(15)そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒行伝26章13-15節)(参照:使徒行伝9章3-4節, 22章6-8節)
(12)そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。(13)それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。(14)そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。(15)その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。(16)その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。 (黙示録1章12-16節)
神の個人的な外見に現れる目に見える栄光の反対側にあるのは、神が万物の相続人であるという立場です。詩篇2篇7-8節で、父なる神が正式に御子を「わが子よ」と認めた後、父なる神は「わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える」と言っています。 十字架上ですでに勝ち取られ、預言的に差し迫ったイエスの世界支配には、最高権威のあらゆる正当な称号とともに、イエスという人物を表す御名(みな)の栄光が伴います。
(9)それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(10)それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、(11)また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2章9-11節)
その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。(黙示録 19章16節)
(4)ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、(5)また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 (黙示録1章4-5節)
(20)神(すなわち、父)はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、(21)彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(22)そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。(23)この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。(エペソ1章20-23節)
これらの節からわかるように、キリストが獲得し、宇宙のすべての者、くまなくすべてのものの上に与えられている栄光と権威の重要な部分は(参照:ヘブル1章6節; エペソ3章10-11節; 第一ペテロ3章22節)、教会の頭としてのキリストのユニークな地位です。 この教会こそ、主の「からだ」(第一コリント12章27節; 参照:マタイ26章26節; ローマ12章5節; 第一コリント12章12-13節; エペソ1章22-23節, 3章6節, 4章4節; コロサイ1章18節, 3章15節)であり、主の「花嫁」(エペソ5章31-32節)であり、十字架の激しい試練を乗り越えて獲得しようとしておられた主の「御前に置かれた喜び」(ヨハネ15章13節; エペソ5章25-27節; ヘブル12章2節)-私たちは、彼がそのために奮闘された「賞」であり、彼が今享受している栄華の重要な一部なのです[1]。この主の栄光の現れは、彼が十字架上での私たちのための死を通してご自身のために私たちを獲得された後、主の人間性においてのみ与えられたものでした(マタイ20章28節; ガラテヤ1章4節, 2章20節; エペソ5章2節)。
(15)御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである(すなわち、宇宙で卓越している)。(16)万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子(イエス・キリスト)にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。(17)彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。(18)そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者(復活の第一人者)となるためである。(19)神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、(20)そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。(コロサイ1章15-20節)
すべての信者がキリストを信じた時点で受けた御霊のバプテスマの結果(ローマ8章9節; 第一テモテ2章1節)、私たちは「キリストと一つ」とされ(第一コリント1章30節, 15章22節; 第二コリント5章17節; エペソ1章13節, 2章6節, 2章10節; コロサイ1章27節; ヘブル3章14節)、このキリストとの一致は、キリストが再臨して地上に戻られて、復活の時に教会と「結婚」される時、目に見える素晴らしい体験的現実になるのです(黙示録19章7-9節; 第一テサロニケ4章16-17節参照)。
[1] 花嫁、すなわち復活の第二段階(1コリント15章24節)は、やがて花嫁の友人たちによって補完されます。花嫁の友人たちは、千年王国の信者たちから成る復活の第三段階であり、長子の権利である「二倍の分け前」を構成します。『サタンの反逆』第5部、第II.8.b項「再創造の七日間」の「第7日」を参照してください。
<-73に続く>