イエス・キリストの生涯-70

イエス・キリストの生涯-70

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

4) 復活の経緯<vii>:

9) 五百人へ(第一コリント15章6節):  私たちはこの「集団」への主の出現を第一コリント15章6節からしか知りませんが、それはエルサレムでなされた可能性が高いです。なぜなら、ガリラヤで弟子たち/使徒たちに個人的に教えた後、後に主がエルサレムに現れ、聖霊の約束が与えられるまでとどまるようにと指示されたからです(エルサレムは、このことが起こる場所と定められていたからです:使徒行伝1章4-5節, 2章1-4節)。それから20年以上経った紀元55年頃には、この時主を見た信者のほとんどがまだ生きていたとパウロは報告しています。この事実と、パウロが文脈の中でこのことを述べていることから明らかなように、このように比較的長い期間にわたって多くの証人が証言したことは、イエスの復活を個人的に見たことのない多くの初期の信者にとって、復活の現実と真実を確認する重要な要素でした。

10) ガリラヤ後の他の出現: 復活後、昇天までの40日間、主が地上に出現されたことを暗示する二つの箇所があります。 ガリラヤの海での七人への出現に関するヨハネの記述は「三度目」(ヨハネ21章14節)であり、山での出会いとエルサレムへの帰還がその直後に行われたことから、これらの他の出現はおそらく、使徒たちが聖霊の到来を待つために帰還した後の期間に行われたと考えられます:

イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。(使徒行伝1章3節)

(30)しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。(31)イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。(使徒13章30-31節)

11) ヤコブへ (第一コリント15章7節): パウロは、イエスが異父弟のヤコブにも現れたと語っています。そして、この出現もまた(パウロの記述から推測すると:第一コリント15章7節)、おそらくガリラヤ以降のことになるでしょう。復活以前には主の兄弟は誰も主を信じていませんでしたが(ヨハネ7章5節; cf.詩篇69篇8節; マルコ3章21節)、その後大きな心境の変化が起こり(ユダ1章1節も参照)、ヤコブの改宗がイエスご自身からのこの出現のきっかけとなった(あるいはなり始めた)のです。後にエルサレム教会の指導者となったヤコブは(使徒行伝12章17節, 15章13節, 21章18節; ガラテヤ1章19節, 2章9節; ヤコブ1章1節)、また、彼がこの特別な扱いを受けることは、彼自身の信仰のためにも、また十一人の使徒に匹敵する権威の尺度としても、間違いなく重要でした。

12) 昇天の弟子たちに (使徒行伝1章1-9節): 

(1)テオピロよ、わたしは先に[あなたのために]第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、(2)お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。(3)イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって[使徒たちに]示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。(4)そして食事を共にしているとき、[イエスは]彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束(すなわち、聖霊)を待っているがよい。(5)すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(6)さて、弟子たちが一緒に集まったとき(すなわち、最後の時)、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(7)彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない(すなわち、再臨などは、神の予定表に従って起こるのであって、あなた方の予定表に従って起こるのではない)。(8)ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(9)こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。(使徒行伝1章1-9節)

ルカによって書かれたこの箇所は、ルカによる福音書の終わりと混同してはいけません。 (上記の)使徒たちがガリラヤから戻った後に主と最後に会った時と、最初のイースターの日曜日の夜の最初に会った時(ルカ24章36-53節<-49-52->)との間には、明らかに類似点があります。ルカ24章の51節にある「そして、主は天にあげられた」という部分は、原文の一部ではなく、ルカによる福音書の終わりと使徒行伝の初めを一つにつなぐために(つまり、使徒行伝が昇天で始まるように、ルカによる福音書も昇天で終わるように)、後から付け加えられたものです。前者はガリラヤに行く前のイースターの夜、後者はその約40日後の昇天の日です。主が御霊のバプテスマに特別な焦点を置いておられること(特に、多くの教会では、これらの聖句がほとんど意味を持たないかのように、水のバプテスマを続けていますが)、主が、特に御霊のバプテスマとヨハネの水のバプテスマを対比しておられることに注意すべきです。上記の聖書箇所は、主が「栄光を受ける」(ヨハネ7章39節参照)前の、復活後の最後の出現を示しています(直後に、天の父の右に座する彼のセッション(着座)が続きます:詩篇110篇1節-;下記セクション5.oを参照)。

13) パウロ(使徒行伝9章1-19節, 22章3-16節, 26章9-18節; 第一コリント9章1節, 15章8節)とヨハネ(黙示録1章10-20節)に: 

…わたしは…使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。… (第一コリント9章1節)

復活の主を実際に「見ること」、それによって復活の証人となることは、使徒の職に就くための不可欠な条件でした(使徒行伝26章16節; 使徒行伝22章15節参照)[1]。 そして使徒の職は、十二人だけであり、今後もそうであり続けるでしょう(黙示録21章14節参照)。パウロは「栄光のうちに」主を見ましたし(使徒行伝9章3節, 22章6節, 22章11節, 26章13節)、パトモスのヨハネも見ました(黙示録1章12-17節)。ですから、これらの昇天後の出現は、それ以前の出現とは著しく異なっており、主が御父の御前で昇天されたときに起こった栄光化の壮大さと大きさを示しているのです。


[1] すなわち、ペテロが、イエスの地上での十字架以前の働きに実際に参加することが必要条件であると思い込んでいたことは誤りでした(使徒行伝1章21-22節)。マッテヤの「選出」も誤りでした(使徒行伝9章15節参照:パウロは異邦人に福音を伝えるために、主の「選ばれた器」です)。

<-71に続く>

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