イエス・キリストの生涯-66
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
4) 復活の経緯 <iii>
マリヤが主の死の必要性と復活の現実の両方を信じ、理解しようとしたこと (以下のマリヤの行動によって証明されています)は、上記の称賛だけでなく、 復活したイエスを最初に見るという栄誉をももたらしました-この点において、彼女は教会全体でも唯一無二の存在であり、これは小さな栄誉ではありません。多くの註釈者がこのマリヤをマルタとラザロの姉妹であると見なすことに消極的であったという事実の根底にあるのが、この「マグダラのマリヤ」という名前が理由なのです。ほとんどの人は、「マグダラの“Magdalene”」という言葉が、ガリラヤの町を指す、異邦人向けの形容詞であると当然のように考えています。しかし、他のギリシヤ語の形容詞に見られるように、語尾の-エネ-“ene”が接尾辞である可能性があります。そうであれば(通常提唱される仮説的な町の名前ではなく)、「塔」を意味するアラム語のマグダル “magdal”(ヘブル語ではミグドル “migdol”)がこの形容詞の語源となります。このように、マリヤのこの称号は、彼女の生まれ故郷や町(実際、彼女はベタニヤ出身)を表す属格的なものではなく、むしろ、十字架に架けられる前、その最中、そしてその後に、他の多くの人々が絶望に屈した時に、彼女が「塔のように」しっかりと立っていた時に示された彼女の信仰の堅固さに対して与えられた敬称(マグダラと「呼ばれる」理由を説明しています:ルカ8章2節)[1]です。マリヤの行動とその結果としてのこの栄誉は、私たち全員にとって模範であり、また励ましとなるべきです。主は、この世での主に対する私たちの応答に基づいて、私たちすべてに永遠の名前を与えることを私たちは知っています(黙示録2章17節; イザヤ65章15節; イザヤ62章2節後半; 黙示録3章12節参照)。信仰の粘り強さは、主が語られたことを実際に聞き、それを信じた結果であり、今も昔も、この世での人生における「最良のもの」(ルカ10章42節)であり、霊的成長と成功のための唯一の道である主の言葉を実際に聞いて信じることの結果です。
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 (マタイ5章19節)
では、マリヤが死からよみがえったイエスをどのようにして見たのか、その経緯について考えてみましょう。 三つの共観福音書は、信仰深い女性たちの内輪の者達が、アリマタヤのヨセフとニコデモが主の遺体を十字架から降ろした後、どこに安置したかを観察していたことを報告しています(マタイ27章61節; マルコ15章47節; ルカ23章55-56節)。マタイとマルコは、マグダラのマリヤ(ヨセの母マリヤである「ほかのマリヤ」と共に)を特に特定し、最初に言及しています。四つの福音書すべてが、ユダヤ教の慣習に従ってイエスの遺体に油を注ぐ目的で、安息日に女性たちが墓に来たことを記録しています(マタイ28章1節; マルコ16章1-2節; ルカ24章1節; ヨハネ20章1節)。 ヨハネの記述は、最初のイースターの朝の出来事を再現する上で特に重要です:
(1)さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。(2)そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。(ヨハネ20章1-2節)
他の女性たちも墓にやってきましたが、マリヤは夜明けを待っていられない気持ちでした。聖書には確かなことは書かれていませんが、彼女が最初に到着したことから、彼女の大きな愛だけでなく、死者の中からよみがえるというイエスの言葉に対するわずかな信仰に基づいて、イエスが生きておられるのを見ることができるという希望があったことが推測されます。なぜなら、彼女は、山をも動かすことができる、からし種ほどのわずかな信仰の可能性に固執した唯一の人物だったからです(参照:ヨハネ20章9節のNASB訳「彼らはまだ、聖書が『彼は死者の中から復活しなければならない』と述べていることを理解していなかった」)。このような理由から、主は彼女に最初の復活の姿を表され、また彼女が主に油を塗るという行為が福音の物語の一部となることを保証してくださったのです。福音は、マリヤと同じように信じる人々にとってのみ有益だからです。
上に引用したヨハネの福音書20章の2節が示しているように、その朝に起こった具体的な出来事は、次に何が起こったのかを明確に把握するために一つづつ追って見てみる必要があります。マリヤは私たちの主がよみがえったすぐ後、夜が明ける前に墓に向かい夜が明けた直後に、最初に墓についたのですが、石が転がされていたのを見たのです。もう一人のマリヤ、そして他の女性たちもその後まもなく到着し、墓に入りました(そこで天使たちはイエスの復活を告げ、使徒たちにその知らせを伝えるように指示しました)。 しかし、マリヤは墓に入ることなく、開け放たれた墓の外からイエスの遺体がもうそこにないことを(参照:ヨハネ20章11節では、彼女はまだ入ろうとはしていませんでした)見分けることができました。他の女性たちと一緒に墓に行こうとしなかった彼女は、他の女性たちが中に入り、天使たちが現れる前に、そこを立ち去ったに違いありません。これは、彼女が使徒たちに「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」という報告をしたことを説明します。(後に到着した他の女性たちは天使たちの報告を使徒たちに伝えました)。マリヤの言葉を受けて、ペテロとヨハネが墓へと走っていたときには、すでにその場にいた他の女性たちは、勇気を出して墓に入り、天使たちから復活の吉報を受け取り、すぐに使徒たちを探し出して、指示通りにメッセージを伝えました。そして彼らは行く途中で、復活した主に出会いました(すぐ下のセクションを参照)。–しかし、それはイエスがマリヤに現れる前ではありませんでした。マリヤは、ヨハネとペテロがすでに帰った後、再び墓に戻ったのでしょう。しかし、途中で使徒たちや他の女性たちには会いませんでした。マリヤが墓に着いて涙を流していた時、天使たちがイエスの頭と足があった場所に座っているのを見ます。
(13)すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。(14)そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(15)イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。(16)イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。(17)イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。(ヨハネ20章13-17節)
復活に関するイエスの教えを他の女性たちは直接受け取り、使徒たちには間接的に伝えられるように言われた(マタイ28章6-7節; マルコ16章6-7節; ルカ24章5-8節; なぜなら、使徒たちはまだ、主が繰り返し語られたことを理解していなかったからです:ヨハネ20章9節)のに対し、マリヤはそのように思い起こさせられることはありませんでした。なぜなら、彼女はずっとこの祝福された出来事を待ち望んでいたからです。彼女が受け取ったのは、これから起こる出来事についての説明でした。主が父のもとへ昇天し、勝利に満ちた再臨の日を待つ前に、主は彼女と他の弟子たちと短い間だけ一緒にいるということを教えられたのです。しかし、この真理の言葉は、信仰によって正しい位置と正しい心構えでそれを受け取るにふさわしく備えられた彼女に、主ご自身が与えられたものでした。
[1] レビ人ヨセフ・キプロスに与えられた名前を参照:使徒たちからバルナバ(「励ましの子」という意味)と呼ばれたバルナバ(使徒行伝4章36節)、また、主からシモンに与えられたペトロまたはケパ(ヨハネ1章42節)、そして、おそらくその反対の極にある 「デドモ」という名前はトマスに与えられたもので、これは「双子」を意味するものと考えられていますが、おそらくは「二心」や「疑い」を意味するものであったのかもしれません(ヨハネ11章16節, 20章24節, 21章2節)。
<-67に続く>