イエス・キリストの生涯-65

イエス・キリストの生涯-65

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

4) 復活の経緯 <ii>

1) マグダラのマリヤに(ヨハネ20章11-18節,14b-16,17-18): イエスの地上での宣教の間中、イエスに同伴し、イエスと弟子たちを後方支援した女性たちの重要性は、たとえ一般的には評価されていないとしても、過小評価されるべきではありません(ルカ8章2-3節参照)。 最初のイースターの日曜日の早朝、空っぽの墓に現れた女性たちから、彼女たちが果たした重要な役割の一端をうかがい知ることができます。イエスの遺体を手入れするために墓に赴いたとされる女性たちのリストには、マグダラのマリヤも含まれています。 (マタイ28章1節; マルコ16章1節; ルカ24章10節)、「もう一人のマリヤ」(マタイ28章1節; マルコ16章1節)、ヤコブの母マリヤ(マルコ16章1節; ルカ24章10節; また明らかに「ヨセの」; マルコ15章40節, 15章47節参照)、サロメ(マルコ16章1節)、ヨハンナ(ルカ24章10節)、そして「他の女たち」(ルカ24章10節)。 この中には、ルカ23章55節で「ガリラヤからイエスと一緒に来た」(ルカ23章55節参照)女性たちが含まれていたかもしれません。この女性たちの中には、宣教を積極的に支援し(ルカ8章2-3節)、十字架でイエスのそばに立った(マタイ27章55-56節; マルコ15章40-41節; ルカ23章49節; ヨハネ19章25節)女性たちも含まれていたことは間違いありません。

このグループの中でも際立った存在であり、十字架上で磔にされているところを見守っていたと名指しで言及されている人々に、イエスの母マリヤ(ヨハネ19章25節)、その姉妹マリヤ(ヨハネ19章25節)、クロパの妻マリヤ(マリヤの姉妹であった可能性があります:ヨハネ19章25節)[1]、小ヤコブとヨセフの母マリヤ(マタイ27章56節; またはヨセ:マルコ15章40節)、サロメ、弟子ヤコブとヨセフの母(マタイ27章56節; マルコ15章40節; ルカ24章10節参照)、マグダラのマリヤです。[2] マグダラのマリヤは、復活後に主が最初に現れた人であり、その名誉は小さくはありません。

現代の学術的見解では、マグダラのマリヤとベタニヤのマリヤ(マルタとラザロの姉妹)を同一人物と見なす初期の時代の見解を疑わしいとされていますが、実際のところ、この二人を同一視するには十分な理由があります。すなわち、ベタニヤのマリヤは、ルカによる福音書7章に記されている、涙でイエスの足を洗って、その足に香油を注いだ女性(ルカ7章36-50節<36-38,39-41,42-44,45-47,48-50>)でもある可能性が高いということです。なぜなら、マリヤは十字架につけられる六日前に同じような行為をした女性であることが確実であり(そして、<二度目には>涙を流さなかったことと、埋葬を予期してイエスの頭にも油を注いだことで、初めに油を塗った時とは区別されます)、イエスが死刑にされようとしているという旨のイエスの言葉を聞いた人が少なくとも一人いたことを示す第二の例だからです(マタイ26章6-13節<6-8,9-11,12-13>; マルコ14章3-9節<3-5,6-9>; ヨハネ12章1-8節<1-3,4-6,7-8>)。 先に述べたように、これらの行為のユニークさ、かなりの出費を伴うこと(必然的に大多数のユダヤ人女性は考慮の対象から除外されます)、そして両方がシモンの家で起こったという事実(マタイ26章6節; マルコ14章3節に対してルカ7章40節)は、私たちが同一人物を扱っていることを示す良い証拠です。 さらに、マリヤがシモンの家に出入りしていたという事実(ヨハネ12章2-3節)は、この「罪深い女」が、ルカの記述の中で、非難されることなく、自由に中に入ってイエスの足を洗うことができたことを説明しています[3]

ルカは、7章でこの物語を報告した直後、8章で、イエスと弟子たちの宣教の間、彼らに従って個人的な努力と持ち物を通して宣教を支えた女性たちについて説明しています。

(1)そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。(2)また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、(3)ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。(ルカ8章1-3節)

この段落の冒頭にあるギリシャ語の言い回し(Καὶ ἐγένετο ἐν τῷ καθεξῆς)<カイ エゲンエト エン トーイ カセクセイス: 口語訳、新改訳では「そののち」と訳されています>は、<7章の終りの>油を塗った事と<8章の>イエスの旅とイエスに付き添った女性たちの描写を意図的に結びつけています。ルカはそれによって、7章の女性が8章のリストに含まれていることを示唆しているようです(ただし、<7章で言われている>「罪深い女」という彼女の立場を考慮して、その名指しは避けられています)。このような悪霊憑きは、不信仰者の場合にのみ起こり得ることであり、通常は神と神の意志を拒絶した結果として起こります(多くの場合、極度の罪深さが原因です)。[4] このリストの中で、マグダラのマリヤは最初に名前が挙げられており、また最大の悪霊の攻撃から解放された人でもあります。しかし、ゲラサの悪霊に憑かれていた人の場合と同様に<ルカ8章26節->、マリヤは神に立ち返り、救いの恵みを心から受け入れました。彼女は多くのことを許されたからこそ、他の人よりも感謝の気持ちが強かったのです。(ルカ7章40-49節) ルカ7章の油を塗ったことは、それ以前に行われたはずの悪霊の支配からの解放に続く、マリヤの最初の公的な感謝の表現であり、サマリヤのらい病人の場合と同様に、彼女はこの最も劇的で記憶に残る方法で神に栄光を帰し、彼女の感謝の深さと回心の完全さを示しています。以後、彼女は自分の人生と持ち物をイエスの宣教に捧げることになります(ベタニア出身の姉妹が与えた支援が、<彼女の油を塗るのと>同様に普通以上に与えていることを比べてみてください: ルカ10章38-42節; ヨハネ11章9節, 12章2節, 12章3-6節、主と御言葉に対するマリヤの喜び:ルカ10章39-42節、三人の兄弟に対する主の愛: ヨハネ 11章5節, 11章35節)。十字架刑(十字架のそばに立つ)、埋葬(主がどこに葬られたかを見守る)、そして主の復活(香料を買い、再び持ち物を与え、最初に行き、最後に帰る)におけるマグダラのマリヤの信仰と誠実さの姿は、ベタニヤのマリヤの姿と完全に一致しています。 どちらも、若い頃に重大な過ちを犯し、イエスが説かれた永遠の命の申し出を熱心に受け入れ、その結果、並外れた信者となり、信仰と無私の行為によって、私たちの主への愛と、十字架上で私たちのために死なれた主の使命への愛を示した女性です。

よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。(マタイ26章13節)(マルコ16章9節; ヨハネ12章7節参照)


[1] ヨハネ19章25節のギリシャ語のテキストでは、この二つが同一視されているように思われますが、この解釈には明らかな問題があります。すなわち、同じ名前を持つ2人の兄弟という解釈です。ただし、ギリシャ語の音訳( 苦味や反乱を意味する語源を持つ伝統的な「Miriam」ではなく、アラム語のMari-Yah、「主は私の主」に由来する「Mary」と解釈する方が、主の母の場合には魅力的でしょう)。もし「義理の姉妹」という意味であれば、クロパはイエスの叔父ということになります(あるいは従兄弟という意味で、「妻」ではなく「母」と訳すのが正しいでしょう。ギリシャ語の原文では「彼女」としか書かれておらず、どちらの可能性も認められます)。クロパがルカ24:18のクレオパと同じ人物である可能性は十分にあります。後者の名前はギリシャ語であるという理由で否定されることもありますが、前者の名前も同様にギリシャ語である可能性が高く、単にヨハネ福音書ではよりセム語の音訳が用いられているだけであると考えられます(すなわち、子音性閉鎖音の直後に「L」の音が続くのは、通常のヘブル語やアラム語の組み合わせではありません)。

[2] ここでも、マグダラのマリヤは、マタイ(マタイ27章56節)とマルコによる福音書(マルコ15章40節)の両方で最初に言及されています。

[3] ルカによる福音書第7章の冒頭で、ヨハネからイエスのもとに使いの者がやって来ます。ヨハネは「ベタニヤの近く」で洗礼を授ける習慣があったため(ヨハネ1章28節参照)、この出来事がベタニヤで起こったことを示唆している可能性もあります。

[4] 「サタンの反乱」シリーズ第4部のV.4「悪霊憑き」を参照。

<-66に続く>

他の投稿もチェック

神の訓練

神の訓練

神の訓練   -「道」シリーズ-       内容 癒し…... 暗きを創造された神... 素晴らしい新年のスタート... 思いもよらない試練、その先に…... 傷つけ、いやす神... 渇きの祝福... 主と個人的に出会う場所.. 生きている限り... 主は祈りに答えられる... 祈りの力--癌とバセドー氏病の癒し.. 奇跡... より良い賜物... 私はあなたと共に行こう.. この人が生まれつき目が見えないのは.. 人生の卒業と新しい出発点... 回復…... 終わりに... 癒し…   (二〇二五年一月)...