イエス・キリストの生涯-59

イエス・キリストの生涯-59

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

3) イエス・キリストの肉体の死と埋葬<ii>:

1) 地震 : 地震は神の本質的な感嘆符であり(列王記上19章11-12節; 使徒行伝4章31節参照)、歴史における新しい時代の始まりを示すために、神が非常に頻繁に用いられます(例えば、イザヤ29章6節; マタイ28章2節; ヘブル12章26-29節; 黙示録8章5節, 11章13節, 11章19節)[1]。キリストが霊を放たれた後に地震が起こり、マタイが告げているように「岩を裂いた」(マタイ27章51節)ので、神の言葉である御子の働きに父の承認の印が劇的に押されたのです。

主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。 (エレミヤ23章29節)

2) 神殿の幕が裂けること: 地震と同じように(あるいは、この場合、なさっているのは神であることを否定することはさらに難しいので)、神殿の聖なる場所と至聖所の奥の間を隔てるベールが超自然的に裂けたことは、神ご自身からのしるしでした(マタイ27章51節; マルコ15章38節; ルカ23章45節)。このしるしは、さらに、普遍的な現実の根本的な変化を非常に生々しい形で示しました。聖なる所は象徴的に第三の天と神ご自身の臨在を表し、ベールが裂けることは、罪のゆえに避けられない人と神との敵対関係の終わりを象徴し、人類がイエス・キリストの血とイエス・キリストの体によって神に近づくことを象徴しているからです(後述のⅡ.9節「和解」参照)。

幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 (ヘブル9章7-12節)

(19)兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 (20) (「新しく殺された」)[犠牲の]彼の肉体(ヘブル10章10節, 10章18節参照)なる[天の]幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、(ヘブル10章19-20節)

3) 死者の蘇生 : 

また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。 (マタイ27章52-53節)

ラザロのように、これらの人々は生き返ったのですが、それは今の私たちの命と同じでした。つまり、彼らは永遠に復活したのではなく、一時的に蘇生したのであり、マタイは上記の箇所で、彼らの状態と本当に復活した主の状態とを区別するように注意しています。 それにもかかわらず、これは驚くべき奇跡であり、主が勝ち取られたばかりの勝利の生命を与える特性に注意を喚起するためのものであることは明らかです。 私たちの罪のための主の死によって、私たちは主を信じる信仰によって永遠の命を与えられたからです(ヨハネ3章16節; 第一ヨハネ5章11節)。

死後の主の体の取り扱われ方もまた、旧約聖書のいくつかの預言を成就させ、メシアとしての主の真の地位を疑う余地なく示しています。兵士の槍で刺し貫かれた結果、「血と水」が出てきましたが(ヨハネ19章34節; 後のⅡ.4「キリストの血」の項を参照)、 ほとんどの医学的権威によると、この出来事が起こったとき、彼はすでにしばらくの間肉体的に死んでいたという兆候がありました。実際、ローマ兵士たちが彼の死を早めるために彼の足を折らなかったのは(彼と一緒に十字架につけられた二人の場合のように:ヨハネ19章31-37節)、彼が明らかに、疑いなく肉体的に死んでいたからです。

(36)これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。(37)また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」(ゼカリヤ12章10節; 黙示録1章7節参照)とある。(ヨハネ19章36-37節)

アリマタヤのヨセフ(裕福な人物:マタイ27章57節)とニコデモは、ピラトに願い出て、イエスの遺体を引き取り、埋葬することを許可されました。 彼らは、約60ポンドの没薬と沈香(これは莫大な費用がかかったであろう)で包み、それを「誰もこれまでに入ったことのない新しい墓」に安置しました。(ヨハネ19章38-41節; マタイ27章57-60節; マルコ15章43-46節; ルカ23章50-53節)。こうして、苦難のしもべの埋葬に関するイザヤの預言が成就しました。

(7)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。(8)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。(9)彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者<英語・新改訳Ⅳでは「富む者」>と共にあった。(イザヤ53章7-9節)

これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ53章12節後半)

メシアは完全に拒絶されてしまったのです。メシアはご自分の民のもとに来られたのに、ご自分の民は彼を受け入れようとしなかったのです(ヨハネ1章11節)。 しかし、彼は律法と預言者がメシアについて預言した通りの方であり(ルカ22章37節,  24章44節; ヨハネ5章39節, 5章46節)、そして、彼はまさにイスラエルが主にお願いした通りの人物であり、存在でした。すなわち、全能の神の燃えるような神聖さと自分たちの間に立つ仲介者だったのです:

(15)あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。(16)これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。(17)主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。(18)わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。(19)彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。(申命記 18章15-19節)


[1] 来たる艱難 第5部 I.7「地震」を参照。

<-60に続く>

他の投稿もチェック

イエス・キリストの生涯-58

イエス・キリストの生涯-58 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 3) イエス・キリストの肉体の死と埋葬<i>: イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 (マタイ27章50節) イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 (マルコ15章37節) そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 (ルカ23章46節)...

イエス・キリストの生涯-57

イエス・キリストの生涯-57 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 2) イエス・キリストの霊的な死<ii> : 2) キリストの血:「キリストの血」とイエスの十字架上での私たちのための霊的な死については、後のII.4とII.5でそれぞれ取り上げていますが、ここでいくつかのことを指摘する必要があります。主イエス・キリストは、ご自身の霊を吐き出して肉体的な生涯を終えられたことから明らかなように、血を流して死なれたのではありません(マタイ27章50節;...