イエス・キリストの生涯-58
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
3) イエス・キリストの肉体の死と埋葬<i>:
イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 (マタイ27章50節)
イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 (マルコ15章37節)
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 (ルカ23章46節)
すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。 (ヨハネ19章30節)
私たちの主は、私たちに真理を教えた後、私たちの代わりに十字架上で私たちの罪のために死ぬという、特別な使命を果たすためにこの地上におられたのです。その使命が果たされると、イエスは自らの意志でこの世を去られました。 救いが達成された今、十字架に留まることはもはや何の役にも立たなかったのです。 残された私たちにとっては、この世を去る決断を自らの手で下すことは、神の意志に対する恐ろしい反逆行為です。人間の生命は、(世俗の科学がどのように信じていようと)誕生時に神が人間の霊魂を授けられたときに始まり、霊魂が授けられた方のもとに戻るときに終わります[1]。しかし、私たちの主は、人類の歴史の中で唯一、御業を成し遂げた後に命を捨てる権利と力を与えられていたのです(ヨハネ10章18節)。イエスが世の罪を負われる間、ゴルゴダを三時間にわたって覆った暗闇が、例外的で議論の余地のない奇跡であったように、私たちの主が死なれた方法そのものが、主が本当に神の子であると主張される方であることを証明する奇跡的なしるしでした。 この事実は、ローマの百卒長によって証言されています。百卒長は、それまで多くの人が死ぬのを見てきた戦闘のベテランでした(この地位は、長年にわたる功労によってのみ得られるものだったからです):
イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして[イエスが] [霊を吐き出して]息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。 (マルコ15章39節)(参照:マタイ27章54節;ルカ23章47節)
主がこの世を去られた様子はあまりにも印象的であったため、この頑ななベテラン兵士でさえも感銘を受け、以前は嘲笑っていたイエスについての話を信じるようになりました。イエスがこの世を去られた際には、他の奇跡も起こりました。それらはすべて、主の神性を示すとともに、主の十字架上の勝利がもたらしたあらゆるものの根本的な変化を示すものでした。(例えば、詩篇110篇1節; エペソ1章10節; 4章7-10節; コロサイ1章13節, 1章20節, 2章13-15節; ヘブル2章14-15節; 第一ペテロ3章22節; 第一ヨハネ3章8節)
(8)自らをへりくだり、死に至るまで従順になり、[私たち皆のために]十字架上で死なれたのです。(9)それゆえ、神はこの方を最も高い所に上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。(10)それは、イエスの御名によって、天においても、地においても、また地の下においても、すべてのひざがひざまずき、(11)すべての舌が、父なる神の栄光のために、イエス・キリストが主であることを告白するためです。(ピリピ2章9-11節)
[1] このシリーズの第3部A、II.3「人間の霊」参照。
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