イエス・キリストの生涯-57

イエス・キリストの生涯-57

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

2) イエス・キリストの霊的な死<ii> :

2) キリストの血:「キリストの血」とイエスの十字架上での私たちのための霊的な死については、後のII.4とII.5でそれぞれ取り上げていますが、ここでいくつかのことを指摘する必要があります。主イエス・キリストは、ご自身の霊を吐き出して肉体的な生涯を終えられたことから明らかなように、血を流して死なれたのではありません(マタイ27章50節; マルコ15章37節; ルカ23章46節; ヨハネ19章30節; また以下のセクションI.5.l.3を参照のこと)[1]。 また、闇が去った後の十字架上の最後の言葉(詳細は次の項目で説明)からも明らかなように、主が息を引き取る前に、罪のための死は完了していたという事実があります。これらを総合すると、私たちの罪のために死ぬという私たちの主の有効かつ償いの効力のある働きは、主がまだ肉体的に生きておられた時に、私たちのために暗闇の中で耐え忍ばれたことにあるということを意味します。ですから、ゴルゴタの丘に闇が訪れる前に、私たちのために肉体的に受けたイエスの苦しみは、計り知れないほど大きく、真の理解を越えるものでしたが、世界の罪の罰を負うために、その闇の中で耐えられた苦しみは、私たちが想像することさえできないほど霊的に死に至るものであり、その苦しみは、それ以前の苦しみとは比較にならないほど大きなものでした。

(18)あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、(19)きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。(第一ペテロ1章18-19節)

「キリストの血」は私たちが贖われた代価ですが、これはあくまで聖なる喩えです。イエスは文字通りの小羊ではありませんし、同様に、私たちはイエスの肉体的な血によって贖われたのではありません。むしろ、イエスは父なる神の犠牲であり、小羊はそれを象徴しています。肉体的な血のイメージは、私たちの主の肉体的な死よりもさらに貴重なものを象徴しています。それは、主が十字架上で闇の中で死なれた、霊的な死を象徴しています。主は、全世界の罪の罰を支払うために死なれたのです。

なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。(ローマ6章10節)  

神はわたしたちの罪(すなわち、罪の供え物)のために、罪を知らない[個人的に罪をおかした体験のない]かたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。(第二コリント5章21節)

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(第一ペテロ2章24節)

3) 主の最後の達成宣言 :

(28)そののち、イエスは今や万事(すなわち、肉体的な苦しみと、世の罪のための霊的な死)が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書[にある救いの預言]が全うされるためであった。(29)そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。(30)すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った<英直訳では:それ(すなわち、救い)は[今]成し遂げられた>」と言われ、首をたれて息をひきとられた。(ヨハネ19章28-30節)

上記テキストの二番目の太字のギリシャ語の動詞teleo(τετέλεσται 、文中における活用完了形)は、28節の同じ形(πάντα τετέλεσται)に対応し、それと共にキリストの初降臨の目標の完了を意味します。この文は実際、メシアに関する詩篇22篇31節の最終節を言い換えたものです:  「主は成し遂げられた!」。 私たちはすでに、この詩篇が主の十字架上の苦しみの多くを預言的に予言していることを見てきました(たとえば、7-8節の群衆のあざけり、16節の主の「刺し貫かれた手と足」、18節の主の衣服の「くじ引き」、そして全体を通しての主の苦しみの生き生きとした詩的描写)。 しかし、主はこの詩篇の終わりを言い換えておられるだけでなく、詩篇の始まりも直接引用しておられるので、この「今、成し遂げられた!」という力強い宣言は、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(詩篇22篇1節; マタイ27章46節; マルコ15章34節参照)という前の引用によって投げかけられた質問に対する直接的な答えなのです: 救いが「成し遂げられる」ために、御父は御子を見捨て、世の罪のために裁きに渡さなければならなかったからです。まだ肉体的に生きておられたイエスご自身が救いの達成を宣言しておられる(そして、イエスの苦しみと捨てられることはその必要な前提条件である)という事実は、私たちの贖いの達成は、主が霊を吐き出して肉体の生命を捨てられる前にすでに行われていたことを示しています。このように、イエスの十字架上の勝利は、暗闇の中で私たちの罪のために死なれた霊的な死(イエスはまだ肉体的に生きておられたので、「今、成し遂げられた」と宣言することができたのです)の中にあるのであって、それに続く肉体の死にあるのではありません。  (時々冒涜的に描かれるように)十字架から絶望的な疑いの訴えとは程遠く、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、正反対のことを意味しています。なぜなら「見捨てること」はもはや過去のことであり(「なぜわたしをお見捨てになったのですか」)、一方、イエスが御父の使命を成功裏に成し遂げ、罪に打ち勝たれたことは、今や達成された現実だからです(τετέλεσται:「それは今や成し遂げられた!」)。

主は、わたしたちの罪過のために(すなわち、私たちを罪から贖うために)死に渡され、わたしたちが義とされるために(すなわち、イエスの死によって義とされた私たちもよみがえるために)、よみがえらされたのである。 (ローマ4章25節)

イエスがぶどう酒を飲まれたのも、預言の成就であり、同様にメシアの使命の達成を告げるものです:

彼らはわたしの食物に毒<英直訳:胆汁>を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました。 (詩篇 69篇21節)(マタイ27章34節, 27章48節,マルコ15章23節, 15章36節; ルカ23章36節; ヨハネ19章29節

彼は道のほとりの川からくんで飲み、それによって、そのこうべをあげるであろう。 (詩篇 110篇7節)

上記の最初の引用は、二つの出来事に関するものです;ひとつは、イエスが胆汁を拒否した試練の始まりの場面、もうひとつは、試練が成功裏に終わった場面で、主が酸い葡萄酒を求められ、それを受け入れたことで、勝利、すなわち、世の救いが達成された後の短いリフレッシュメントを象徴しています。二番目の箇所も同様に、よく知られたメシアの詩篇から引用されていますが、この詩篇は(過去に何度も見てきたように、旧約聖書の預言ではよくあることですが)二回の降臨を融合しています。 詩篇110篇は主に勝利の詩篇であり、メシアが第一の降臨において救いを成し遂げられたことを祝い、第二の降臨において世界の支配者として再臨されることを予期しています。 この最後の節は、ハルマゲドンの戦いの後、メシアの軍隊をリフレッシュさせることを指しているとも読めますが、現在の文脈では、初降臨においてご自身の使命を終えられたイエスご自身を指しています[2] 。ですから、主のこの飲む行為は、預言の成就を通じて、真の「戦い」が終わったこと、そして、主が私たちに代わって罪のための死を通して救いを成し遂げ、勝利されたことに注意を喚起することを第一の目的としています。 これはまた、ヨハネ19章30節に記されているように、主が霊を吐き出す準備として「頭を上げ」たことの意味でもあります。つまり、主が飲んだ後に頭を上げられたという点で、詩篇110篇7節にあるもう一つの預言が成就したのです[3]

最後に、主の十字架上での最後の言葉、詩篇 31篇5節の引用、「父よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(ルカ 23章46節)もまた、主の使命が成功裏に完了したことを示しています。 というのも、イエスを使わされたのは御父であり(上記Ⅰ.3.c節参照)、私たちの主は、この言葉が示唆するように、御父のもとに自発的に戻られたのです。 イエスは、ご自分の命を捨て、またそれを取り返す力(ヨハネ10章18節)を持っておられましたが、それは恣意的なものではなく、世の罪のために死ぬという、ご自分に与えられた重大な使命を果たした後のことでした。この引用も同様に、救いがこの時点ですでに達成された事実として語られていることは、主が語られたのではありませんが、詩篇の読者なら誰でも知っているこの詩篇の第二連によって明らかになります: 「主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。(詩篇 31篇5節)」。 イエスは私たちを罪から贖うために死なれ、私たちの贖いは主が霊を放棄される前に保証されたのです。


[1] 詳細は、R.B. Thieme Jr.著『The Blood of Christ』(ヒューストン、1977年)を参照してください。

[2] つまり、動詞yishthehと yarumは、同じように、ここでは「彼は飲み、持ち上げる」という意味かもしれないし、三単数形を非人称形と理解して、「一人(=一般に人々、ここではメシアの軍隊)が飲み、持ち上げる」と読むこともでき、最初の読みは最初の降臨に対応し、二番目の読みは二番目の降臨に対応する。

[3] この文脈では、ギリシャ語の分詞形klinasは世界中で誤訳されています。しかも、驚くほど誤訳されています。なぜなら、明らかに、「大声で叫」ぼうとして「頭を垂れる」(つまり「前かがみになる」)人は誰もいないからです(マタイ27:46マルコ15:37)。代わりに、声門を開くために、当然、頭を後ろにそらすか、「頭を上げる」でしょう。動詞の形では両方の可能性が考えられるが、叫ぶという文脈、そしてもちろん詩篇110:7の成就を考慮すると、後者の意味<頭を上げる>となるでしょう。

<-58に続く>

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