聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
l. 十字架刑<v>:
6. 「父よ、彼らをおゆるしください」という挿入句は聖句ではない: 最も有名で、最も頻繁に翻訳されている聖句のひとつに、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」は聖書の言葉だと思われています。ルカによる福音書23章34節の前半にあるこの半節は、間違いなく聖書の一部ではなく、福音書の物語を補うために(後述するような動機で)後から書き加えられたものです。言語学、古文書学、歴史学、神学のどの観点から見ても、この箇所は明らかに偽造です。
1) 言語学的証拠: ルカによる福音書23章の33節は 「…人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」で終わっています。一方、挿入部分に続く34節では、「そして、彼らはイエスの服を分け、くじ引きでそれを引いた」と、この文章が締めくくられています。 ほとんどの英語訳でも(少なくとも、この不自然な挿入部分の問題を「化粧直し」するのにあまり手間をかけなかった場合)、変更された文書は説得力に欠けます。ギリシャ語では、唐突に主題が変わり、すぐにまた元の物語に戻るというびっくりさせられる展開となって、このテキストに対する疑念がすぐに湧き起こります。この挿入句(ギリシャ語では動詞は未完了時制であり、イエスが「言い続けた」ことを意味します)は、ルカの物語のスタイルとは一致しません。ルカの物語では、出来事の連鎖が中断されることはほとんどなく、特に重要な発言は通常、何らかの導入部があり、それにいくつかの論評や説明、あるいは反応の描写が続くというスタイルです。ルカがこれを34節の冒頭ではなく、節の終わりに記していたとしたら、違和感は少なかったでしょう。しかし、挿入者がこの箇所を挿入のために選んだのは、主が十字架に釘付けにされた直後に、これらの言葉をイエスの口から発せさせたいと思ったからであることは明らかです (そして、私たちはすでに、聖書が実際にはその行為について詳しく述べていないという事実について議論しました。それはまさに、私たちの救いの基盤となるのは、十字架に釘付けにされるという肉体的苦痛ではなく、闇の中で罪のために死ぬことであるからです)。それでも、「そして、不法を犯した者は、一方を右に、一方を左に」という言葉によって、イエスの十字架刑とこの記述が切り離されています(この聖書にはない追加部分の配置が、さらに不自然に見える理由です)。 それぞれ単独では決定的なものではないかもしれませんが、この箇所を疑わしいものにする要素には違いなく、本文を注意深く読んでいる人、特にギリシャ語で読んでいる人にとっては、疑いを抱かせるものです。
2) テキスト上の証拠 : おそらく、この半節を聖書の一部と見なすことに対する最も決定的な証拠は、この半節が新約聖書の最も古く、最も優れた写本のいくつかに出てこないという事実です。最も優れた古代写本であるシナイ写本の同時代校訂者は、その写本における誤った挿入箇所を修正して抹消しているだけでなく、他の主要な写本のいくつか(例えば、バチカン写本、D、W、シータTheta、そして最後にボドマー・パピルスBodmer papyrusは、他のほとんどの写本よりも古い証拠であり、一般的に西暦250年から290年頃とされています)では、そもそもそのような挿入箇所が存在しません。その結果、ギリシャ語新約聖書の最も優れた批評版ではすべて、この箇所を偽書としています。文書分析の規範によると、この種のケースで考慮すべき主な検討事項の一つは、その文書が原本であるか否かによって、その一節を含めるか排除するかを考慮するということです。この箇所がどれほど有名で、簡潔で、引用に適しているか(おそらく新約聖書の中で最も引用されている「節」です)を考えると、写本作業者がこれを省く理由として、納得のいく説明はできません。また、これほど有名な箇所がなぜ偶然見落とされたのか、合理的な説明もできません。したがって、最古の写本群の一部にその箇所が欠けていることは、その箇所が真正なものではないという決定的な証拠となります。なぜなら、これらの初期の写本にその箇所が欠けている唯一の可能性は、それがもともと真正な文書にはなかった(初期の写本が書かれた後に追加された)場合のみだからです。
3) 歴史的証拠 :書記者がこの一節を書いてはいなかった根拠は容易に手に入りませんが、誰かがこのような一節を挿入したり、一旦挿入された一節を弁護したりする理由は明らかです。例えば、聖書を熱心に読む人なら誰でも知っているように、ステパノは石打の刑に処せられているとき、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と宣言しました(使徒行伝7章60節)。ステパノが世の罪のために死のうとしていたメシアではなかったという明白な区別はさておき、私たちに代わって罪のために死んでくださった主の本質を表面的に理解している人が、同じような包括的な赦しの声明がないことを問題視し、この挿入によって認識された「問題」(実際にはまったく問題ではありません。主要な現代英語版のすべてが、ギリシャ語原文に明確に記されていることだけを記すという方針をとっているにもかかわらず、この箇所を印刷しているという事実は、これが単なる古代の偏見ではないことを示しています(もちろん、現在では、多くの人がこの聖句に大きな感情的愛着を抱いています)。
もしこの<半節を挿入した>者が単にステパノの言葉か、あるいはその一部を再現しただけなら、彼の詐欺行為はすぐに明白になったでしょう。彼は犯罪の証拠となる可能性のあるこの証拠を避けましたが、私たちにとっては幸いなことに、彼はその半節を一から作り出したわけではありませんでした。この半節は、実はヘギシッポス(Hegisippus)という名の初期の教会史家(彼の著作は現在では断片的にしか残っておらず、エウセビオスの『教会史』の中に存在する)から引用されたものです。この引用はエウセビオスの第二著のヤコブの殉教についての記述にあります:
そこで、彼らは上って行って、義人を投げ捨て、互いに言った、『義人ヤコブに石を投げつけよう』。ヤコブは倒れても死ななかったので、彼らは彼に石を投げ始めましたが、彼は振り返ってひざまずき、こう言いました。「あなたに乞い願います。主なる神であるわれらの父よ、彼らをゆるしてください。彼らは自分たちが何をしているかわからないからです」。
エウセビオス2.23.16
上記の太字の言葉は、単に響きが似ているだけではありません。ギリシャ語では、ルカによる福音書にある文章と同一のものです。[1] エウセビオスの文章には、主の類似の言明との一致を示唆するものがないため(また、ルカの一節がどれほど有名になったかを考えると、このような正確な引用であることを認める何らかの表明が必要であったでしょう)、<半節を>挿入した者はヘギシッポスHegisippus(その作品は現在、断片的にしか残っておらず、エウセビオス著『教会史』に存在しています。)から直接、あるいはエウセビオスから派生的にこの言葉を引用したと言ってよいでしょう。 ギリシャ語の構文、形態、語順の柔軟性を考えると、これが偶然の一致である可能性は天文学的に極めて低い確率です。[2]
4)神学的証拠: 使徒言行録第7章におけるステパノの祈りは、適切かつ気高いものでしたが、イエスは世界の罪のためにご自身を差し出しておられました。(ステパノも、私たちの誰も、このようなことを想像することさえできなかったことです)。このように、罪の赦しのために、イエスとその御業、御自身と十字架上の死を受け入れるかどうかが、人間の人生の課題なのです。もちろん、父も、もちろん私たちの主も、すべての人々の赦しと救いを望んでおられます。
そのような赦しがすべての人に与えられるように、まさにそのために、父は御子を犠牲にし、御子は私たちの身代わりとなって死なれたのです。しかし、この挿入文のような声明を提示することは、赦しには悔い改めは必要ない、救いは救われる側の信仰がなくても可能だというメッセージを送ることになります。これほど真実から遠いことはありません。イエスはこの世の罪のために死ぬことができ、また死なれましたが、イエスができなかったこと、またされなかったことは、この世の不信仰のための死です。不信仰は、赦しが不可能な「赦されざる罪」の一つであり、私たちの主イエス・キリストがそのような言葉で不信仰を免罪したことは、神の御計画全体に計り知れない影響を及ぼすことになります(そして、究極的には、そのような一律の赦しは、事実上、神の義を損なうことになり、決してありえないことです)。
イエスに従う者は、神の限りない憐れみと、私たちの罪の赦しは、罪のために十字架上で死なれた主の御業に完全に基づいているという事実を理解し、感謝せずにはいられません。イエスは罪を赦すことができましたし、実際に赦しました。「人の子には、地上で罪を赦す権威が与えられている」(ルカ5章24節)のです。 しかし、イエスは間もなくすべての人の罪のために死なれる段階になっても、すべての人の罪を赦されたわけではなく(ヨハネ8章24節, 9章41節, 17章9節)、信仰を持ってイエスに立ち返った人の罪だけを赦されたのです(マタイ9章2節; ルカ7章48節; 参照.ヨハネ20章23節)。 もしイエスが、イエスを断固として拒絶し、今後も拒絶し続ける人々(イエスの十字架の周りに立ってイエスをあざ笑った人々の大半のように)にも無条件で赦しを与えるのであれば、それは救いに対する信仰の必要性を排除することになり、信仰によってキリストの功績に与り、罪に対する償いを求める神の義を損なうことになり、本質的には十字架を無意味なものにしてしまいます。イエスが私たちのためにしてくださったことを受け入れなくても、人が赦されるのであれば、犠牲そのものが不要になるからです。 この誤った箇所は、信仰を通して行使される自由意志の問題や、そもそも人類が創造された根拠全体を排除しています[3]。
この挿入がこれほど広く引用され、しかも聖書も主の犠牲の真の性質もほとんど理解していない人々によって引用されるという事実は、きわめて明白です。私たちの主が死なれたのは、信仰によって主の御業を受け入れることによって私たちが救われるためであって、世が主を拒絶し、神とその賜物を放棄しても救われるということではありません。私たちの主イエス・キリストが、その霊的な死によって全世界の罪を贖うことによって、全世界がこの恵み深い行為を信じ、彼を信じることで救われるように永遠の命への門が開かれようとしていたのです。ゴルゴタに闇が下る直前に、主の犠牲も私たちの応答も不要であることを宣告するメッセージを送ることなどは主にとっては考えにも及ばぬことです。
[1] 両文書の文章は次のとおりです:Πάτερ, ἄφες αὐτοῖς, οὐ γὰρ οἴδασιν τί ποιοῦσιν.
[2] ちなみに、エウセビオスが挿入者にとって格好の収穫地であることは、この箇所だけではありません。彼の第3巻でも同様の状況が見られ、聖書外の文献ではあるものの、同様に愛読されているヨハネによる福音書第8章の姦通の女の物語が、聖書には元来なかったものの、エウセビオスがその物語の起源である可能性が高いことを示すような形で概略が描かれています(H.E. 3.39.16)。
[3] 「サタンの反逆」シリーズ、パート3A「人の目的、創造、堕落」を参照してください。さらに、これらの言葉は、十字架が神の計画の一部であるというよりもむしろ間違いであるかのような印象を与えているという事実も問題です(「では、聖書の言葉はどうして成就されようか」マタイ26章54-56節参照)。また、十字架にかけられたという物理的な行為が重要な出来事であるかのような印象を与えているという点も問題です。救いをもたらすのは、私たちの罪を負い、その罪のために裁かれ、罪を償うことなのです。
<-56に続く>