イエス・キリストの生涯-53

イエス・キリストの生涯-53

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

l. 十字架刑<iii>:

3.  イエスは十字架の上であざけられました(マタイ27章39-44節; マルコ15章29-32節; ルカ23章35-39節): 群衆一般、特に祭司長や律法学者たちが、私たちの主が十字架にかけられ、私たちの罪のために裁きを受けようとしているときに注いだ侮蔑は、聖書全体的にも(特に詩篇22篇7節を参照)、また具体的にもどちらの側面からも予言されていました。後者では、祭司長や律法学者たちが実際にメシヤの苦しみを予言している詩篇22篇を引用して、主を非難しますが、それは自分たちの盲目的で独善的な振る舞いを糾弾しているのです:

「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。(詩篇22篇8節)

(41)祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、(42)「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。(43)彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。(マタイ27章41-43節)

私たちの主が四方八方から受けたこの暴言、主が救うために来られ、そのために死のうとされた人々からの恩知らずの極みについて、最後に一つ注目すべきことがあります。イエスは、そうしようと思えば十字架から下りてきて、彼らにひどい言葉を浴びせることもできたのです。イエスはご自分の考えを変えることもできたのです。世の罪のために死ぬ必要はなかったのです。イエスは私たちのための計りきれないほどの深い愛から、私たちのためにしてくださったのです。そして、私たちが背を向け、彼らが激しくあざ笑ったにもかかわらず、ご自分をあざける者たちにも永遠の贖いを与えるために、十字架にとどまることを選ばれたのは、主の偉大な勇気と大いなる愛のしるしです。

4.  二人の強盗 :主と共に、二人の強盗も主の処刑の行列の中でカルバリーに連れて行かれ(ルカ23章32-33節)、主の右に一人、左に一人、十字架につけられました(マタイ27章38節; マルコ15章27-28節; ルカ23章33節)。これはまた、イエスご自身が言及された預言、すなわち、メシアは「罪びとのひとりに数えられ」(ルカ22章37節)るという預言の一部を成就させたのです[1]。これらの人々を表現するために使われたギリシャ語、マタイとマルコでは「レステス」、ルカでは「カクールゴス」は、これらの者たちが軽犯罪者ではなく、最も凶暴な種類のプロの重罪人、追いはぎや恐ろしい犯罪を犯した家宅侵入者であったことを示しています。最初、彼らは他の者たちと一緒になって、無実であるイエスを非難していましたが、しばらくして、間違いなく主が示された不屈の精神と勇気に感銘を受け、まだ残っていた良心に動かされたのでしょう、盗賊の一人が心を入れ替えました。 彼は自分のあざけりをやめ、同胞を叱責し、主に憐れみを求めました。

(39)十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。(40)もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。(41)お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。(42)そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。(43)イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23章39-43節)

「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という主のお言葉は、それを聞こうとするすべての人のために、一方ではこの世の全くのむなしさを、他方では私たちがこの世にいる本当の理由の極めて重要なことを結晶化したものです。この男は、誰が見ても恥ずかしくなるような人生を送っていたにもかかわらず、ただ自分の愚かさを悔い改め、自分のために命を捨ててくれようとしていた主を信じただけで、イエスにある兄弟として、永遠に私たち全員と一緒に天国にいるのです。一方、見ていた人々の大多数は、世の人々の目には称賛され、それなりに立派な人生を歩んでいたかもしれませんが、ただ神の愛する御子というお方における神の恵み深い救いの賜物を受け入れようとしなかったという理由で、永遠に火の池に投げ込まれるのです。


[1] マルコ15章28節の本文への挿入により、この出来事をイザヤ53章12節に帰結させていますが、これは聖書の一部ではありません。

<-54に続く>

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