イエス・キリストの生涯-51

イエス・キリストの生涯-51

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

 l. 十字架刑<i>:

1) 十字架の出来事:

嘲笑され、拒絶され、殴られ、鞭打たれた主は、この時、体力の限界に近づいていましたが(しかし、道徳的な決意は失っていませんでした)、ヘブル語で「頭蓋骨」を意味するゴルゴタという名の場所まで主は十字架をかついで運ばせられました。ヨハネの福音書によれば、イエスは十字架を背負わされた最初の行程で、自ら十字架を背負っていました(ヨハネ19章17節)。その前の夜から朝にかけて、たいていの小男を殺すのに十分な肉体的虐待を受けた主は、どうやら、主が死に行く場所まで連れて行くローマ兵の動きに合わせて速く動くことができなかったようです。そこで彼らは、アレキサンデルとルポスの父(ローマ16章13節参照)であるクレネ人のシモンに「無理やり」、残りの道のりを主に代わって十字架を担がせました(マタイ27章32節; マルコ15章21節; ルカ23章26節)。 二人の犯罪人も十字架につけられることになり(ルカ23章32節)、行列が進んでいく中、主はある時、ついて来ていた大勢の群衆に向かって、胸を打ち、嘆き悲しむ女たちに声をかけられました:

イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。 そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。 もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。 (ルカ23章28-31節)

ホセア書10章8節からの二番目の引用は、メシアの再臨の際、邪悪で再生していない人々が、メシアの再臨に対してどのような反応を示すかについての預言です。この引用と言葉によって、主は喪に服した人々の焦点を、主の状況から彼ら自身の霊的な危機へと移されたのです。数十年のうちに(紀元68年)、エルサレムは間違いなくローマ帝国によって完全に破壊されることになるのです。イエスの十字架刑をいくら嘆いても、エルサレムをその運命から救うことはできないでしょうし、この嘆きによって、イエスをメシアとして、自分たちの罪と全世界の罪のために死のうとしている神のひとり子として受け入れようとしない群衆を救うこともできないでしょう。

ゴルゴダに到着したとき、主は痛みを消すためにある種の添加物を混ぜたぶどう酒を飲まされました。 マルコはそれを「没薬」と呼び、マタイは「苦いもの」と呼んでいます。 どちらの言葉もギリシャ語では(よくさまざまな苦味や芳香のある物質を意味する)やや一般的な言葉です。 マタイが「苦いもの」という単語を選んだのは、詩篇69篇21節の預言の成就を強調するためであることは明らかです。「彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました」(ヘブル語のロシro’sh[ここでは「苦い」と訳されています]は、実際には特定の苦いハーブ「ニガヨモギ」を指しますが、しばしば有害な効果をもたらすものに喩えられます)。ある種の没薬には鎮静作用があると考えられており、主は、この恐ろしい試練の後、ひどく喉が渇いていたのは間違いないのですが、世の罪を引き受けるというご自分の自由意志の決断を少しでも損なうようなものを飲みたくはなかったのです。十字架にかかるまで、私たちのために走り通されたこの試練のすべての出来事のように、私たちが永遠の命を得るために、主は私たちのためにそうされたのです。

彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 (マタイ27章35節)

それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。(マルコ15章24節)

されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 (ルカ23章33節)

彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。 (ヨハネ19章18節)

私たちの主を十字架に釘付けにする行為に関する実際の描写について、筆者がいつも気になるのは、特に何千年もの間、キリスト教の芸術、文学、音楽の中で重要視されてきたことに比べて、福音書の作者たちはそれをほとんど無視しているように思えることです。この事実だけでも、私たちのために主が支払われた犠牲を考える際に強調されるべきなのは、主の肉体的な死ではないことを示していると思います。結局のところ、後述するように、イエスは日射病やショックや外傷や失血によってではなく、自発的に霊を吐き出して肉体的に死なれたのです。私たちのために霊的に死ぬという十字架上の御業が成し遂げられた後、御自身の肉体の命を捨てられたのです。その「わざ」、すなわち[霊的な]死は、私たちの代わりに裁かれ、世の罪のために裁きを受けるためであり、そのために、世はご自分を信じる信仰によって救われるのです。

(16)まことに、犬[のような者達]はわたしをめぐり、[この]悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。(17)わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。(18)彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。(詩篇 22篇16-18節) 

しかし,彼はわたしたちの罪のために刺し通され,わたしたちの咎のために砕かれました。(イザヤ53章5節)

わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。(ゼカリヤ12章10節)              

(14)そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子も(すなわち、罪の赦しのための信仰の対象として、すべての人が見ることができるように、十字架の上に)また上げられなければならない。(15)それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。(16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。   (ヨハネ3章14-16節)

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。 (黙示録1章7節)

死罪に問われたローマ市民に対する通常の刑罰は斬首刑(ファスケス:ローマの執行官が持っていた、斧に巻きつけた棒の束のこと)でした。それは十字架につけられるより、はるかに残酷ではなく苦痛の少ない処刑方法であり、しかもはるかに早く終わるものでした。しかし、十字架刑は、ローマ帝国の権力に逆らう者を待ち受ける恐ろしい報いを、それを目撃したすべての人に伝えるためのものでした。そのため、十字架刑がほとんどの場合、ショック死、日射病死、脱水症状による非常に苦しい死を伴うものであり、その過程が数日間も続いたのは偶然ではありません。ピラトがイエスの「素早い」死に驚いたのも(マルコ15章44節)、ローマ兵がイエスの右と左にはりつけにされた二人の犯罪人の足を折って、安息日が始まる前に取り除かなければならなかったのも、このためです(ヨハネ19章33節)。足によって十字架の上での自分の姿勢をこと支えることができなくなると、すぐに窒息死が起こるからです(もちろん、ショックは大きいですし、その過程を早めることになります)。 しかし、預言によれば、私たちのために死なれた主のからだの「骨は一本も」折られませんでした(詩篇34篇20節; ヨハネ19章36節; 出エジプト12章46節; 民数記9章12節参照)。 兵士たちは主の脇腹を刺して、彼がすでに死んでいるとわかって、主に対しては何もしませんでした。十字架上の暗闇の三時間の間に、贖罪の業はすでに完成していたのです。

それゆえ、ローマ世界の住民にとって、十字架は恥辱、非難、死のしるしであり、象徴であり、とりわけ非常に苦痛を伴う、公然の、恥ずべき死でした。 さらに、ユダヤ人にとってそれは、特に言えることで、人を(木や十字架に)吊るすことは、その人が「呪いの下にある」ことを意味します(申命記21章23節; 参照. ヨシュア8章29節, 10章26節; サムエル下4章12節; ガラテヤ3章13節)。 このことは、「クリスチャン」を名乗る私たちに、主が「自分の十字架を背負って」主に従いなさいと言われたとき(マタイ10章38節, 16章24節, マルコ8章34節; ルカ9章23節, 14章27節)、主が私たちに言われたことを思い起こさせるはずです。 主の模範から明らかであるように、これは単なる些細な、あるいは一時的な「不都合」に耐えなさいという命令ではなく、むしろ、この世とその中にあるすべてのものを避け、私たちが自分のために決してできないこと、つまり私たちの罪のために十字架上で死ぬことによって神の裁きを受け私たちが神と共に生きる永遠の命への扉を開くということを私たちのためにしてくださった方を喜ばせるために、キリストの苦しみとはずかしめを受け入れる人生への呼びかけなのです。

(24)信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、(25)罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、(26)キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。(へブル11章24-26節)

  (1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人(人と天使たち)に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とを(特に、私たちに習慣的に影響を与えているどんな罪でも)かなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(ヘブル12章1-2節)

(12)だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために(すなわち、十字架上の死)、門の外で(すなわち、交わりから離れて)苦難を受けられたのである。(13)したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て(すなわち、同じように、世よりも神を選んで)、みもとに行こうではないか。(ヘブル13章12-13節)

十字架に架けられ、両手両足が釘で刺し通された時でさえ、時のベールを透かして彼方の栄光を見ることができたであろう主の全ての弟子たちにとって、この苦しみと辱めの姿は、この世の恥辱の中に上げられた私たちの主が、復活して天に昇り、御父の右の座に栄光のうちに着座される、間もなく来るその日を思い起こさせるものであったはずです;  そしてこれからも間なく、私たちの主の十字架のしるしが天に現れ全地から目撃され、先んじて殉教したばかりのモーセとエリヤが主の右と左の栄誉の座につく、その日が来ることを覚えていて下さい(マタイ24章29-30節; 参照. 黙示録11章7-14節参照)。

<-52に続く>

他の投稿もチェック

イエス・キリストの生涯-63

イエス・キリストの生涯-63 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 3) 復活の本質:  イエスが被造物におけるすべてのことにおいて第一人者であるように(コロサイ1章15-20節)、復活においても私たちの先駆者です(ヘブル2章10節, 6章20節, 12章2節参照)。 ただ、各自はそれぞれの[復活の]順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち(すなわち、再臨の教会)、 (第一コリント15章23節)、...

イエス・キリストの生涯-62

イエス・キリストの生涯-62 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 2) 復活の意味: 復活の予言や(詩篇16篇10節; 使徒行伝2章24-31節, 13章30-38節)、王国の継承者としての地位(使徒行伝5章30-31節, 10章40-43節, 17章31節; ローマ1章4節;...