イエス・キリストの生涯-50
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
キリストの七つの裁判<vii>:
6) ピラトによる裁判: 第二段階(マタイ27章15-26節; マルコ15章6-15節; ルカ23章13-25節; ヨハネ18章39節-19章16節):ピラトは、ヘロデが主を自分のもとに戻したことを、自分が以前に無罪判決を下したことへの承認と解釈しました(ルカ23章15節)。イエスが返された後、ピラトはさらに何度も主の十字架刑を阻止しようとしました。これにはいくつかの理由があるのは間違いないでしょうが、その一つとして、彼の正義に対する深い敬意を挙げる必要はないでしょう。(参照:ヨハネ18章38節「真理とは何か」)。 主のあかしと主の臨在の力は、ローマ総督に深刻な不安(参照:ヨハネ19章7-12節)を引き起こし、また、彼の妻が主とは一切関わらないようにと彼に警告したことも、さらなる不安の原因であったと思われます(マタイ27章19節)。 しかし、ピラトはまた、1)自分とユダヤ当局との間のこの「意地の張り合い」に負けたくないという願望、2)明らかに政治的な殺人と見なされていることに何らかの形で巻き込まれることを避けたいという願望、つまり、正義感からではなく、むしろ、どの派閥をも不必要に疎外しないために、ユダヤ党派政治の争いに巻き込まれないようにしたいという願望(つまり、イエスが「ねたみから」逮捕されたことがわかっていた)ため、イエスを助けるように動かされていた可能性が高いです: マタイ27章18節; マルコ15章10節。群衆を説得しきれずに、文字通り「手を洗った」のも、このためです: マタイ27章24-25節)。
自分自身とヘロデの尋問に基づいてイエスを無罪と宣言しようとした彼の試みが説得力を持たなかったとき、ピラトは、ますます緊迫してきたこの状況から解放されるために、十字架刑に代わる妥協策を見つけようとしました。 しかし、祭司長や長老たちに煽られた群衆は、代わりにバラバを求めて叫びました(マタイ27章20節; マルコ15章11節)。彼はまた主に対して屈辱と虐待を試みて、主はさらに殴られ、鞭打たれ、兵士たちに嘲笑され(マタイ27章27-30節; マルコ15章16-19節; ヨハネ19章2-3節)、紫色の服を着ていばらの冠をかぶった主(ピラトは知らなかったが、主が全世界のために呪われようとしていることの象徴:創世記3章18節参照)[1]を群衆にコミカルに紹介して差し出しました: 「見よ、これがその人だ!」(ヨハネ19章5節)。 この妥協策も受け入れてもらえず、主とのさらなる尋問によっても、彼のジレンマに対して解決策にも助けにもならなかったとき(「わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。イエスは答えられた「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」(ヨハネ19章10-11節))、ピラトはついにイエスを十字架刑に引き渡したのですが、これは、ユダヤ人指導者の指導の下、民衆がエースの切り札を使ったときでした:「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。」(ヨハネ19章12節)。究極の政治的実利主義者であったピラトは、この時点で自分が負けたことを知っていました。 民衆と民衆の意思に主を引き渡さないことは、(それが彼の力の及ぶ範囲であったとしても)彼にとって大きな代償となり、イエスのためならどんな不利益(当面の暴動、将来の不安定、あるいはカイザルに告発される可能性のある不正行為など)を被ることも欲しくはありませんでした。しかし、ピラトは、ユダヤ人たちが自分たちで決めたことを受け入れただけだということをはっきりさせるために、まず手を洗い、自分の「潔白」(申命記21章6節参照)を示したのです。その時人々は叫んで: 「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい!」と言ったのです(マタイ27章25節)。 そして、疑いを残さないために、またこの敗北から政治的資本を得るために、ピラトはイエスを彼らの「王」と呼び、彼らが本当に自分たちの王を十字架につけることを望んでいるのかどうか質問しました。(霊的に盲目であった)ピラトは、悪い状況を最大限に利用し、イエスを十字架につけるために「彼らの意志に引き渡した」のです(ルカ23章25節; マタイ27章26節; マルコ15章15節; ヨハネ19章16節参照)。
[1] この見解は、マドレーヌ・ウッドワードさんMs. Madeleine Woodwardのおかげです。
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