イエス・キリストの生涯-44
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
キリストの七つの裁判<i>: 聖書の象徴では、七は完全の数であり、神の数(例えば、七日目、千年王国、七つのエデン)である一方、六は人間の数(すなわち、六日目に創造され、イエス・キリストというお方が加わらなければ不完全)です。 ですから、私たちの主が、暗闇の中で私たちの代わりに御父によって十字架上で裁かれる前に、人間の手によって六つの裁判を受けさせられたのは偶然ではありません。これらの試練のそれぞれにおいて、イエスは反論の余地のない無罪の身でありながら、それにもかかわらず断罪され、しみも傷もない完全ないけにえの小羊として、私たちの罪の身代わりとなるため死刑に処せられました。 そして、人間の手によって行われたそれぞれの試練において、私たちの主は断罪されただけでなく、肉体的にも精神的にも虐待されました。 とはいえ、このような六つの裁判は、私たちにとっては耐えることは難しいことですが、主にとっては、十字架上で試練中の試練が始まる前に、主の気概と完全性を示すための前哨戦だったのです。
人類史上前例がなく、二度と再現されることのないこの虐待の試練は、預言されたメシアの最後の屈辱です。私たちの主イエスの受難と屈辱は、旧約聖書の預言に繰り返し登場するテーマであり、まぎれもないテーマです(イザヤ52-53章参照)。それがあまりにも「不快」であったため、イエスの同時代の人々によって拒絶され、彼らはイエス自身を拒絶しました。その結果、それ自体がイエスの苦しみと屈辱の一部でした(詩篇22篇6節, 118篇22節; イザヤ53章3節; マルコ9章12節; 第一ペテロ2章4節)。 そのため、詩篇118篇21節の誤った伝統による唱えのように、このことを預言している聖句の部分が意図的に隠ぺいされることもありました(上記脚注#66の「凱旋」で取り上げています)。 私たちはすでに、主の裏切り(預言された言葉:「わたしの仲間、わたしの親しい友」詩篇55篇13-14節, 詩篇41篇9節参照)、弟子たちに見捨てられたこと(預言された言葉: 「牧者を撃て」: ゼカリヤ13章7節、ペテロの三度の否認については後述)を取り上げてきました。これから私たちは、その過程と結果において、基本的な正義の概念からこれ以上かけ離れることはあり得ないほどの、主が耐えなければならなかった試練について(預言された言葉: 「彼らは理由なしにわたしを憎んだ: ヨハネ15章25節, 詩篇35篇19節, 詩篇69篇4節, イザヤ52章13節-53章12節参照)考えてみます。これらのことはすべて、私たちの主の苦しみや 「受難」に大きく影響を与えました。それは、単に家でくつろぎながらそれらについて読むだけでは見逃しがちなことです。何年も気にかけ、助けようとしてきた人に裏切られて死に至ること、また、最も必要な時に、最も親しい仲間たちから見捨てられ、否定されることは、小さな問題ではありません。
最後に、十字架につけられる前に、キリストが受けた六つの裁判は、私たちの誰もが耐えられないような、特に私たちが主のように完全に聖別された振る舞いをもって耐え忍ぶことができない、疑いなく重いものでした。肉体的な苦しみ、殴打や鞭打ち、中傷や冒涜、つば吐きやあざけりによる精神的な苦痛を越えて、司法手続きによって断罪されること、邪悪な人間、法を犯す人間、まともな市民から敬遠されるべき人間であると裁かれることや、自分を中傷し死を求める怒れる群衆に襲われることは、恐ろしいことです。特にそれが全く真実でない、不当で不正なものであれば、なおさらです。しかし、私たちの主イエス・キリストほど、すべての悪事やそのように見えるものに対して、完全かつ明白に無実であった人はいません。それであるのに、主イエス・キリストは六回も断罪され、ご自分が救いに来た人々は、イエス・キリストよりも本物の犯罪者(バラバ)を助命することを優先したのです。
<-45に続く>