イエス・キリストの生涯-43
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
k. キリストの試練 : 三度目の祈りを終えると、イエスは再びペテロ、ヤコブ、ヨハネのところに来て、彼らが眠っているのを見つけ、彼らを起こされました。その時が来たことをよく知っておられたからです(ヨハネ18章4節; 参照.マタイ26章36-47節; マルコ14章40-43節; ルカ22章46-47節)。 ユダは祭司長やパリリサイ派の者たちに詳細を告げて、導き(ヨハネ18章3節)、大勢のユダヤ人の非正規軍(マタイ26章47節; マルコ14章43節; ルカ22章47節)、松明と武器で武装したローマ兵の全隊(正規の兵力は600人)が、主とその少数の弟子たちに襲いかかりました。ユダは主を「ご主人様」と呼んで抱きしめることによって、この不法な襲撃の目的である主を特定したのです(マタイ26章49節; マルコ14章45節; ルカ22章48節; 第二サムエル20章9節参照)[1]。真夜中の暗闇の中、悪意を持った圧倒的な敵対勢力に襲われ、主の仲間たちの心にどのような恐怖がわき起こったかは想像するしかありません。しかし、イエスは、御父との完璧な歩みを通して、ご自身が脅迫の域を超えた方であることを示されたのです。 この危機への対処のあらゆる側面から見ることができるように、主は揺るぎない信仰に基づいた真の 「真夜中4時の<日が毎朝必ず出てくるよう何ものにもめげない>、勇気」 を持っておられたのであり、ゲッセマネの祈りの中で私たちのために示されたように、主が感じておられたプレッシャーが、私たちの罪を一人で背負うことと関係していたことを、これ以上確かな形で示すことはできません。 イエスに従う者として、私たちは本当に人を恐れることは何もありません(詩篇56篇4節, 118篇6節)。疑いなく、神の御子は恐れていませんでした。そして、その夜のすべての出来事に対する、そして実際、私たちに代わってカルバリの暗闇の中で裁きを受ける前のすべての出来事に対する主の応答は、このことを最も明瞭に示しています。 神のご意志は必ず成就し、人間や人間の集団が神のご意志を妨げることはできません。
(4)しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。(5)彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。(6)イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。(ヨハネ18章4-6節)
(51)すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。(52)そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。(53)それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。(54)しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。(マタイ26章51-54節)(参照:ヨハネ18章11節)
差し迫った十字架の重荷と、世の罪のための死に耐えようとしているにもかかわらず、私たちの主の上記の行動とコメントは、ご自分が神の子そのものであることを完全に確信しておられることを明らかにしています。 主の神性に触れただけで、襲ってきた者たち全員が主の前に倒れ、主がひと言言うだけで、抵抗できない天使の力を呼び寄せることができたのです。 しかし、主は私たちのために死ぬことを決意され、この世のいかなるものも、私たちの偉大な永遠の福利のために御父の御心を成し遂げることを思いとどまらせることはできませんでした。
主がこれらのことを言われたとき、ペテロが剣を取り上げたときに見せた誤った方向への威勢のよさは消え失せて、弟子たちは予言されたとおりのパニック(マタイ26章31節; マルコ14章27節; ゼカリヤ13章7節 参照)で反応し、主は逮捕され、引きずられることになりましたが、主はこの事態に抵抗されませんでした(イザヤ53章7-8節)。
(55)そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。(56)しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。(マタイ26章55-56節)(参照:マルコ14章48-52節; ルカ22章52-53節)
あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』(イザヤ53章12節)としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。(ルカ22章37節)
[1] すなわち、ラビ、あるいは 「Rabbi」、意味は 「私の偉大な方」、まさに主が弟子たちに互いに使うなと言われた挨拶(マタイ23章8節)ですが、ユダは明らかにイエスに好んで使っていたようで、明らかに本心ではないお世辞の欺瞞的手口の一部でした(マタイ26章25節)。
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