イエス・キリストの生涯-39

イエス・キリストの生涯-39

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

j.  最後の過越の祭り<iii>: 

2) 凱旋(マタイ21章1-17節; マルコ11章1-11節; ルカ19章29-44節; ヨハネ12章12-19節):  王の王、主の主であるメシアである私たちの主イエス・キリストは、ハルマゲドンの戦いで敵の返り血を浴びて、天の白い馬に乗り、栄光のうちに東からエルサレムに入られます(黙示録19章11-13節)。 ここで取り上げられているのは、主が世の罪のためにご自分のいのちの血を注がれる(全人類の罪を贖うためにイエスが暗闇の中で霊的な死を遂げられたことを象徴する)日に、まもなくなろうとしている時、私たちの主は謙遜のうちにロバの子馬に乗り、おとなのロバを伴い、エルサレムに入城されたのです。この、主がろばに乗られたことは、若く訓練されていない動物は戦い(すなわち、ハルマゲドン)には適さず、十字架が先であること、また、主には罪がなく、世の罪のためのいけにえに適していたことを思い起こさせる純潔と無垢を象徴しています。   

(10)つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。(11)彼(すなわち、ユダ、ひいてはメシヤ)はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。彼はその衣服をぶどう酒で洗い(再臨、参照:黙示録19章13-15節)、その着物をぶどうの汁で洗う(初降臨、参照:黙示録7章15節<訳者:小羊の血で洗うことは黙示録7章14節に記されています>; ルカ22章20節)であろう。(創世記49章10-11節)

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得(再臨)、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る(初降臨)。 (ゼカリヤ9章9節)

主がオリーブ山からキドロン谷に下られ、エルサレムに向かわれたとき、やがて主が十字架につけられることを求めることになる民衆の多くは、征服者としてのメシアかもしれないとの期待をこめて預言者(マタイ21章11節参照)を見ようと、(メシアがもたらす至福千年の象徴となる)棕櫚(しゅろ)の枝[1]をまき散らし、勝利の詩篇を歌っていましたが、メシアがまず世の罪のために苦しみ、死ぬ必要があることを語っていた象徴を完全に見落としていたのです。

(19)[メシアが語っている:]わたしのために義の門(すなわち、エルサレムの東の門と東向きの神殿の門)を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。(20)これは主の門である。正しい者は(キリストを通して;ヨハネ10章1-9節)その内にはいるであろう。(21)(英訳:あなたはわたしを謙遜にされましたが)わたしはあなたに感謝します[2]。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。(22) [祝祷者の合唱が答えます:]家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。(23)これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。(24)これは主が設けられた日(すなわち、再臨の日)であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。(25)主よ、どうぞわれらを[艱難期から]お救いください(hoshi’ah na’ =ホサナ hosanna!)。主よ、どうぞわれらを(=千年王国の祝福で)栄えさせてください。(26)主のみ名によってはいる者(=メシア)はさいわいである。われらは主の家からあなた(英訳「あなたがた」:=メシアとその従者)をたたえます。(27)主は神であって、われらを照された。枝を携えて祭の行列を祭壇の角(=十字架を思い起こさせるための千年王国の初代記念のいけにえ)にまで進ませよ。(詩篇118篇19-27節)

その最初の日、エルサレムに入るとすぐに、主は神殿の山に登られ、神の礼拝を人間的な金銭取引システムに変えてしまった金儲けをしている者達を、異邦人の庭から一掃されました。 これは、千年王国で起こることの顕著な伏線であり(ゼカリヤ14章21節; ダニエル12章10節参照)、イエスのメシヤ性を示すもう一つの預言的しるしです。

二日目、彼らがベタニヤから町に戻って来る途中、主はいちじくの実を求めて道ばたのいちじくの木に近づかれましたが[3]、何も見つからなかったので、主はその木を呪われ、その後すぐに枯れてしまいました(マルコ11章13-14節, 11章19-25節; マタイ21章18-22節[4]。この奇跡の象徴は非常に重要です。木はイスラエルとその実りの欠如を表しているからです(ミカ7章1節参照)。 メシアを両手を広げて歓迎し、その霊的な労苦の実をメシアの足もとに置くべきときに、真に敬神的な業をすべて失い、自分を罪から救うために来られた方を十字架につけようとしていたのです。 こうした実証的なしるしは、すべての信者の霊的生活にも関係して言えることです。なぜなら、主のために実を結ぶことは霊的成長の正常な、期待される結果ですが、実を結ばないことは通常、背教と関連しているからです(ヨハネ15章1-17節; ヘブル6章7-8節)。

エルサレムでの最後の数日間に起こった、象徴的に重要なもう一つの出来事は、あるギリシャ人たちがイエスに会いたいと願い出たことと、そして主が「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」と答えられたことです。(ヨハネ12章20-32節)。ユダヤの民に対する預言的な働きが完了した今、この地上におられた時の主の重要な目的、第一の目的であった、全世界の罪を十字架の上で負われることを果たすために、その先にある虐待の試練を耐え抜くために、主は御顔を「火打ち石のように」(イザヤ50章7節ルカ9章51節参照)されました。つまり、全世界の罪を十字架で背負うということです。イエスの死は、例えるなら一粒の麦のように、あらゆる国の人々(この好奇心旺盛なギリシア人はその代表です)を神の家族へと導くという豊かな「実」を結ぶことになるのです。


[1] 仮庵の祭りまたは幕屋の祭りの象徴については、 「サタンの反乱」シリーズの第5部、II.8.c.III.7、「仮庵(幕屋)」を参照してください。

[2] ここでは(カルの ‘anahIではなく)ピエル態の ‘anahIIと読みます。この別の読み方は、次の節<22節>の「捨てた」に照らして多くのことを説明しますが、本質的な子音テキストを変更する必要はなく、発声を少し変えるだけです。というのも、後世の不信仰なユダヤ人学者たちは、苦しみを受けるメシアという概念を可能な限り排除しようとしたからです。

[3] n.b. マルコは物語の中で、いちじくの木ののろいの後に清めを位置づけていますが、マコ11章15節を正確に訳すとわかるように、実際には本当の時系列を示しています:「さて、彼らがエルサレムに入り(すなわち、前日)、主が神殿に入られたとき、… …」。

[4] マタイがparachrema(マタイ21章19-20節)を使ったからといって、木が「彼らの目の前で」枯れたとは限りません。マルコの記述で明らかなように、呪いと枯れとの間には間隔がありましたが、それでもその早さは明らかに奇跡的でした。

<-40に続く>

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