イエス・キリストの生涯-38
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
j. 最後の過越の祭り<ii>:
十字架につけられる前の最後の一週間に関して聖書は、ベタニヤでマリヤがイエスに油を注ぐことから始まり(すなわち、ヨハネ12章1節の「6日間」)[1]、そこに起こるほとんどすべてのことは、イエスがこの初降臨の最終段階を通して弟子たちに予告しようとしてきた本質的な真理を前もって示す役割を果たしています(例えば、マタイ16章21-26節, 17章22-23節, 20章17-19節; マルコ8章31-37節, 9章30-32節, 10章32-33節; ルカ9章22-25節, 9章43-45節, 18章31-34節)。すなわち、メシヤは二度来なければならず、二度目は栄光のうちに治める(人々はイエスはすぐにそうされるであろうと期待していました)ためであり、しかし、一度目は世の罪のために死に、王としての統治を永遠に共有する「ご自分のための民」を買い取るためでした(黙示録5章9節; 黙示録1章5-6節参照)。
1) ベタニヤでの油注ぎ : これらの出来事の第一は、マルタとラザロの姉妹であるマリヤによるイエスの油注ぎでした(ルカ7章36節-に関連している以前の出来事と似ていますが、区別されるべきです)[2]。 イエス自身が語っているように、これは非常に重要なことでした。イエスの死と埋葬を予示していたからというだけでなく(つまり、埋葬の準備として頭と足に油を塗ること:マタイ26章6-13節; マルコ14章3-9節; ヨハネ12章1-8節: 出エジプト30章22-33節)、弟子たちは誰も理解していないようでしたが、少なくともマリヤは、主が皆のために犠牲となってご自分の命を捧げようとしておられることを十分に理解していたからであって、そのため主は「全世界のどこででも、この福音(御国の知らせ)が宣べ伝えられる所では、この女のした事(彼女の信仰)も記念として語られるであろう」と言われたのです(マタイ26章13節;マルコ14章9節参照)。この事件と、(金銭の「浪費」のために)弟子たちの間に最初に起こった憤慨は、ユダにとって「最後の藁」であったと考えることができます。 というのも、使用されたナルドは非常に上質で、(かなりの高値のつく)純粋な香油であったからです[3]。
[1] ここでは、ヨハネがこれらの出来事を、共観福音書におけるテーマ別の配置とは対照的に、厳密な年代順に配置しているというトマスとガンドリーの評価に従っています: R.L. ThomasとS.N. Gundry著『A Harmony of the Gospels』(シカゴ1978年)。
[2] ルカは彼女の名前を挙げてはいませんが、この2つのユニークな行為の類似性(この前の例では、彼女はイエスの足を洗うのに香油に加えて涙を使った)、その行為に費用がかかるという事実が可能性の数を減らしていること(つまり、どちらの機会にも香油の費用を出せるような一般的な身分の女性はいなかった)、そして両方のケースでシモンがホストであるという事実が、両方のケースの女性がベタニヤのマリヤ、別称「マグダラのマリヤ」であることを論証しています。
[3] また、マルコ14章3節では、ピスティケ(pistike)という単語が「本物」、つまり、二流品とは対照的であることを意味しています。
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