イエス・キリストの生涯-36
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
2) イエス・キリストの教えるミニストリー<vi>
e) イエスの教えの形と内容: イエスはロゴスであり、人格を持った神の生きた言葉です(ヨハネ1章1-14節)。 さらに、神の真理の内容は聖典の中で(聖霊によって伝えられる)「キリストの思い」と呼ばれています(第一コリント2章16節)。 ですから、イエス「ご自身の言葉」を強調した「赤文字」版の聖書もあり、それにはそれなりの用途がありますが、私たちは、聖典の一語一句、「一字一句 」、原典に記された一字一句が、イエス・キリストについて、イエス・キリストを通して、イエス・キリストのために、神が世に伝えようと意図された正確なメッセージであることを忘れたりして、惑わされてはなりません。イエス・キリストは御言葉であり、聖典のすべての言葉は御言葉だからです。上述したように、旧約聖書(例えば、列王記上8章59節とマタイ6章11節、ルカ11章3節を比較)や新約聖書の書簡(例えば、ヨハネ17章17節とエペソ4章24節を比較)とつり合いのとれていない福音書のイエスの教えというのはありません。これら主要な三つの部分に分けられる聖典は、それぞれ独自の表現方法を持っていますが、表現されている真理の内容はすべて一貫しています。 確かに、聖典には段階的開示の一般的な傾向があります、たとえば、ダニエル書から終末の時代について私たちが知れることは、主の「オリーブ山での講話」(マタイ24-25章、マルコ13章、ルカ21章)で詳しく説明されており、さらに黙示録(すなわち、「イエス・キリストの黙示」)でさらに詳しく解かれています。ダニエル書も、私たちの主も、ヨハネも、(これらの箇所を正しく理解すれば)あらゆる点でまったく同じことを教えています。時が経つにつれて啓示を拡大していく神のご計画によって、私たちは真理が明らかにされるたびに、より多くの詳細を知ることができるのです。このように、イエスは何かを「変えた」のではなく、すべてを成就されたのです:
(17)わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(18)よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ5章17-18節)
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 (ローマ10章4節)
ですから、キリストを予表する律法であろうと、受肉された御言葉であるイエスの教えであろうと、新約聖書の残りの部分において御霊を通して宣べ伝えられる真理の詳細な説明であろうと(参照:ヨハネ14章26節, 15章26節, 16章13-15節)、メッセージは一つのメッセージであり、統一された、不可分な、不変の、完全なものであり、御言葉ご自身を証しする神ご自身のお言葉であり、耳で聞くことのできる真理の宣言であり、人が真理を知ることができる唯一の手段なのです[1]。
(4)主なる神は[真理の]教を[完全に]うけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、[真理の]教をうけた者のように聞かせられる。(5)主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。(イザヤ50章4-5節)
「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。」(ヨハネ7章16節)
(38)わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。(39)彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。(40)ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。(ヨハネ8章38-40節前半)
(44)イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、(45)また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。(46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。(47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。(48)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。(49)わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。(50)わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。(ヨハネ12章44-50節)
[父よ、]なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。(ヨハネ17章8節)
<-37に続く>
[1] ヨハネ21章25節にあるように、主の地上での務めの教えと奇跡は膨大な量に及び、この種の研究では、適切な注釈を付して列挙することさえ、スペースと時間が与えられません。
<-37に続く>