イエス・キリストの生涯-35

イエス・キリストの生涯-35

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

2) イエス・キリストの教えるミニストリー<v>

            d) 対応行動:  主は真理に妥協されなかったため—まさしく、主は真理です–主の宣教は、世俗的なものであれ、宗教的なものであれ、自分たちの立場のために真理を拒んできた人たち(詩篇119篇161節ヨハネ15章25節; 詩篇35篇19節, 69篇4節; 参照.イザヤ52-53章; ヨハネ8章59節)に反感を与えることは避けられませんでした。私たちの主の真理の宣教は、彼らの偽りの権威の衣を剥ぎ取り、彼らの偽善を片っ端から暴くことによって、彼らの快適な立場を脅かしたからです。自分たちの真の動機について問われ、偽りであることを見せつけられたのですから、彼ら以前のすべての偽預言者たちのように、この「邪悪な農夫たち」がすぐに自分たちにとって邪魔となる存在を滅ぼそうとするのも不思議ではありませんでした(マタイ21章33-41節; マルコ12章1-9節; ルカ20章9-16節)。

私たちの主の権威は御父から来たものですが、主の時代の宗教的権威は真理から完全に切り離され、彼らの唯一の権威は、彼らが保持する地位と彼らが維持する律法主義的な伝統に完全に基づいた偽りの権威であり、律法が教えることを意図していた霊的な現実をあいまいにする伝統でした(マタイ23章1-26節参照)。 主は、ご自分の権威を問われたとき、告発者たちにバプテスマのヨハネの宣教についての彼らの立場を尋ねることによって、この特別な点の核心に真っ向から切り込みました。そのため、彼らは真実を認めるのではなく、むしろ自分の無知を言わざるを得なかったのです:彼らは神にはまったく関心がなく、自分の地位のことだけを考えていました。(マタイ21章25節; マルコ11章30節; ルカ20章4節 )。 

実際、真理に基づいて聖典をしっかり理解している人なら、主の権威は誰の目にも明らかでした。主がなさった奇跡はその権威を完全に立証し(ヨハネ10章25-38節参照)、主が教えられたことはすべて、旧約聖書の聖句の中に重なり合い、また旧約聖書と一致するものです(例えば、マタイ5章5節ゼパニヤ3章12節を比較してください)。主の完璧な教えがどれほど素晴らしかったか、少し考えてみる価値があります。 主は優しく、同時に率直で正直でした。 「豚に真珠」(箴言23章9節参照)を投げることなく、正しく語る方法をいつも見出していました。主は、問題を不必要に個人的なものにすることなく(あるいは他の人にそのように受け取らせることなく)、すべての聞き手の心に響く完璧な方法を持っていました。上で言及したマタイ21章23-37節の例のように、主の言葉はいつも核心を突いており、わずかな言葉で、イエスは人々の真の動機を明らかにすることができました。 それは、主が語られたことすべてにおいて、主が常に目の前の主要な問題、すなわち、神に立ち返り、(神が遣わされた方に従うことを通して)神に従うことの必要性に留めておられたからです。肉体をもって来られたイエス・キリストの御姿に直面し、否定できない奇跡に支えられたその完璧な言葉を聞くことによって、イエス・キリストと同時代の人々は皆、生と死の問題にはっきりと直面させられました。この完璧な教えの基準は、実践者の側に完全な正直さを求めていました(そして、なぜイエスのシンプルな言葉が他の誰の言葉よりも力強く、筆舌に尽くしがたいほど違うのかを説明するのに大いに役立っています)。このように御言葉の真理を完璧に示すためには、お世辞や個人的な意図を完全に拒絶することが必要でした(マタイ22章15-22節; ルカ11章27節; ヨハネ6章15節)。それは、私たちの主が私たち皆のためにしてくださっていること、そして十字架上でしようとしておられることについて、真理への愚かな拒絶や自分勝手な中傷、誹謗、誤った評価をすることによって、たとえそれが正当なものであったとしても、恨んだり、傷ついたりすることを許さないものでした。個人的な名誉や栄光への欲望、同情的な反応の追求、否定的な反応を避けたい欲望、不当な扱いを受け、中傷され、辛辣に反対されると報復したくなる衝動(特に主の場合は、謙虚な感謝と畏敬の念以外には、どんな正当性もなかったので,いら立たせられるものでした)などは、私たちが必ず陥ってしまうような誘惑ですが、主はそうなることを完全に拒否し、それに打ち勝つことが必要でした。イエスは、後にも先にも誰よりも、誰からも神に対する礼拝的な反応を得ることを求めていたにもかかわらず、それが得られなかったときには、ご自分の自然な感情を否定し、そのような前例のない 「ご自身に対する罪人らの反抗 」(ヘブル12章3節)にもかかわらず、完全に熟達したやり方で耐え忍ばなければなりませんでした。主がなさったこと、すなわち、神の義についての絶対的な真理と、ご自身を信じる信仰によってそれを得る方法を伝えるという主のユニークなミニストリーには、それが人々に引き起こすユニークな反応を前にして、完璧な謙遜と知恵と自制が必要でした。

<-36に続く>

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