イエス・キリストの生涯-31

イエス・キリストの生涯-31

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

1) イエスのミニストリーへの障害<iv>:

c) 超自然的な攻撃:  荒野での誘惑(上で扱いました)とユダの裏切りを画策した悪魔の役割(下で扱います)以外にはほとんど記録されていませんが、私たちの主の場合における悪魔の対抗の激しさ(そして、間違いなく選ばれた天使たちによる対抗行動)は、世界史上最も激しかったに違いありません。 要するに、私たちの主イエスは、ご自分がなさったすべての良いことで、激しい抵抗に遭われたのです。

                悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。(ルカ4章13節)

2) イエス・キリストの教えるミニストリー<i>: 私たちの主の三年半の公の働きについて、まず注目すべきことは、イエスがいつも教えておられたことです(マタイ4章23節, 5章2節, 7章28-29節, 9章35節, 11章1節, 13章54節, 21章23節, 26章55節; マルコ1章22節, 2章13節, 4章1節, 6章2節, 6章34節, 8章31節, 9章31節, 10章1節, 11章17節, 12章35節, 14章49節; ルカ4章15節, 4章31節, 5章3節, 5章17節, 6章6節, 13章10節, 13章22節, 19章47節, 20章1節, 21章37節, 23章5節, ヨハネ6章59節, 7章14節, 7章28節, 8章20節, 8章28節, 18章20節)。 彼の生涯は、当時、そして今も、彼について読もうとするすべての人にとって、完璧な模範でした。正式な教えの場であろうとなかろうと、神の真理を完璧に伝えるために、彼の行動や発言はすべて完璧に考慮されていました。

a) 組織と支援: 上記で示唆したように、主はマリヤの健康を確保するために、一方ではこのミニストリーのために家庭的な準備をされ、他方では、家業は間違いなくその後の三年半に十分な安定した基盤が整えられていたことでしょう。 対照的に、個人的な観点から見た主の「戦闘のための組織」は印象的です。というのも、足のサンダルと背中の衣服以外には、物質的な意味で、この宣教にもたらすものはほとんどなかったように思われるからです[1]。しかし、霊的には、後にも先にも誰よりも貴重な財産を心に携えておられました。このことは、私たちにとっても教訓となることでしょう。世間では、大きな(あるいは多大な)後方支援がなければ、ほとんどの宣教活動は試みられるべきでないと考えられています。イエスは目的を第一に考え、細かいことは天の父と私たちに任せました。もちろん、このようなアプローチを成功させるためには、神との極めて親密な歩み(神のみこころが本当は何であるかに疑いを抱かないように)と、個人の霊的成熟度の両方が絶対に不可欠であることは言うまでもありません。

このような極めて身軽な旅は、イスラエルの子供たちが急いでエジプトを出るように命じられた出エジプト記を彷彿とさせる神への信頼を示しています。「腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない」という食事についての過越の祭りの命令の中に記念されている出来事です。(出エジプト12章11節)。そして、これは、イエス・キリストに従うすべての人が持つべき心の態度と同じであり、この世の妨げから離れ、「平和の福音の備えを足にはき、」(エペソ6章15節)イエス・キリストに仕え、従う用意ができているのです。また、神からの特別な支えがあったとしても、地上の現実を完全に無視し、あたかもそれらが存在しないかのようにすることは意図されていないことも示しています(神殿税の納付でさえ、ペテロはある意味で「働く」ことを要求され、そのために彼が最も得意とする漁をする必要がありました: マタイ17章27節)。[2] 弟子たちには共通の財布があり(ユダが持っていた、ヨハネ12章6節:  過越の祭りに必要なものなど、必需品を買うために使われました:ヨハネ13章29節)、他の人々(その多くは女性であったようです:ルカ8章3節, 10章38-40節、ヨハネ11章)によって支えられ、彼らは惜しみなく自分たちの富を捧げたのです。 私たちは、主がこの宣教のために「蓄え」をされたことを前述しましたが、「棕櫚の日曜日」に主がエルサレムに凱旋されるために用意された仔馬(ゼカリヤ9章9節の預言を成就するために、主が前もってこの必要なものを用意されたことは間違いありません;参照.マタイ21章1-7節)の場合にも見る事ができます。また、ごくわずかな持ち物しか持たずに派遣された72人(マタイ10章9節; マルコ6章8節; ルカ10章4節)でさえ、宣教する相手の備えを頼りにするように言われています(この状況は、使徒時代にはむしろ劇的に変化します:ルカ22章35-36節参照)。つまり、この世の手段を利用しつつも、それに惑わされることなく、その手段を与えてくださる方、すなわち天の父に全幅の信頼を置くのです。


[1] 主は、ガリラヤの初期(例えば、カペナウムで)、ご自身を支え、(例えば、ヨハネが洗礼を授けた場所まで)旅するために、最小限の資源、あるいはそれを得る手段を持っておられたかもしれません。いずれにせよ、彼の資力は、どのような基準から見ても、貧弱極まりないものでした。

[2] ですから、弟子たちが「すべてを捨てて」イエスに従った一方で(ルカ18章28節, 5章11節参照)、ルカ5章4-11節で報告されている例外的な大漁は、彼らが「すべてを捨てた」直後のことであり、おそらくペテロ、ヤコブ、ヨハネの家族はしばらくの間、安泰だったことでしょう(神は与えてくださるのです!)。

<-32に続く>

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