イエス・キリストの生涯-30
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
1) イエスのミニストリーへの障害<iii>:
b) 心理的プレッシャー<ii>:
– 十字架の予期
(37)そしてペテロとゼベダイの子ふたり(すなわち、ヤコブとヨハネ)とを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。(38)そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。(マタイ26章37-38節前半)(参照:マルコ14章33-34節)
この聖句は、主が捕まえられ十字架につけられる数時間前に、押しつぶされそうな不安が主を襲っていたことを記録していますが、十字架を予期する重荷、つまり、試練や十字架そのものよりも、暗闇の中で世の罪を背負うことは、主が生涯背負わなければならない重荷でした。そして、私たちは、この来たるべき十字架の重圧が日々、主の上にのしかかっていたことを正しく理解することはできないかもしれませんが(結局のところ、私たちは、世の罪のために裁かれるために何が必要で、何が伴うことになったのかをおぼろげにしか理解することができないのですから)、聖句は、主の初降臨のこの側面を重要なものとして記録しているという事実があります(マルコ10章38節; マタイ16章21節; ルカ9章22節, 9章44節, 13章32-33節, 17章25節, 18章31-34節; ヨハネ12章27節参照)。
(49)わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(50)しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。(ルカ12章49-50節)
– 自制が試される
イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。…(マタイ17章17節)
この箇所は、主が正当で義にかなった憤りをあらわにされた数少ない箇所の一つであり、例外的です。 しかし、地上の母に対する正当で、必要で、穏やかな叱責(ルカ2章49節; ヨハネ2章4節; ルカ11章27-28節参照)の場合と同様に、この正しい状況判断の後には、恵み深い奇跡的な介入が続きます。しかし、私たちとは異なり、この自制の分野における主の試練は実にユニークなものでした。 というのも、主の場合、怒りに満ちた反応やそれに対する総括的な行動への誘惑が理解できるだけでなく(主は完全なお方であり、その結果、常に他者が「間違っている」ことに対処しておられたからです)、主は、ご自身の身に降りかかる不正、軽蔑、攻撃、敵対を是正するために、神の力を行使することができたからです。このような行動は初降臨においては、父のご計画ではありませんでしたが(ルカ9章51-55節参照;再臨の際には全く違ったこととなるでしょう)、しかし、イエスはその力を手にしておられたのですから、地上の生涯を通じて、この点に関して日々刻々と自制されたことは、まさに快挙でした(そのような力を与えられているなら、私たちの誰が一日たりとも完全に自己の正当性を主張することを控えることができるでしょうか)。
(14)人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。(15)イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6章14-15節)
裁きを下すことに関して完全な自制心を示す必要性と同様に、イエスの奇跡の結果としてもたらされた大衆の熱狂に流されない必要性もありました。 ヘロデでさえ、「彼が何か奇跡を行うのを見たいと思った」(ルカ23章8節)ために、彼に会いたがりました。私たちの主は、ほとんどの人が例外なくそうであるように、有名人になることを望まれず、上記の箇所が示しているように、有名人を避け、できる限りそれを避けるために多大な努力を払われました(マタイ8章4節, 9章30-31節, 12章16節, 14章13-14節; マルコ1章43-45節, 3章20節, 8章26節, 9章30節; ルカ4章42-44節, 5章15-16節, 5章19節)[1]。イエスは、人からのほまれは風のように定まらないものであることをよく知っておられ、人からのほまれではなく、天の父を喜ばせることを求めておられました(例えば、マタイ26章42節; ルカ11章2節; ヨハネ4章34節, 5章30節, 6章38節)。
(1)わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。(2)彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、(イザヤ42章1-2節)
[1] 参照.また、マルコ8章28節:(ヘロデも含めて)人々がイエスは死からよみがえった 「ヨハネ 」ではないかと考えているという事実は、ヨハネが死ぬまで有名人であったことを示しています。ヨハネの死後、有名人という要素はイエスの行動の自由を奪い始め、ユダヤの権力構造からの敵意をますます強める結果となりました。
<-31に続く>