イエス・キリストの生涯-29

イエス・キリストの生涯-29

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

1) イエスのミニストリーへの障害<ii>:

                b) 心理的プレッシャー<i>:  神であることに加えて、私たちの主は完全な人間でした(そして今もそうです)。しかし、主は地上におられたすべての期間、真の人間であり、疲労する肉体に加えて、罪は犯さなかったけれども、私たち人間が感じるあらゆる種類の感情を体験されたのです。主は早くから、御自分の感情をコントロールする方法と、その感情に影響を与える出来事を(神のみことばの真理に基づいて)解釈する方法を学ばれました。 しかし、これは主が感情的な痛みを経験しなかったことを意味するものではありません。 (そして時には、それを正当に表現されました。例えば、マタイ17章17節; ルカ22章48節など)。ですから、私たちは、主の人生は非現実的なもので、肉体的な重圧よりもはるかに重くのしかかる心の重圧がどんなものであるかを主がご存じなかったなどと想像してはいけません。 実際、主が対処しなければならなかった心の重圧は、私たちが直面しなければならないものよりも激しかっただけでなく、多くの場合、主だけに特有のものでした。

– 神の子でありながら、無礼な扱いを受けるというプレッシャー:

(1)だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。(2)彼は主の前に若木のように、かわいた土から[湧き]出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。(3) [それどころか、]彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

もちろん、福音書にはこのプレッシャーの例がたくさんあります。イエスは何度も、全く不当な軽蔑のを受けて、敵を厳しく罰することができたにも関わらず、一貫して完璧に耐え忍ばれました。実際、ある時、弟子たちが格別の侮辱に対して正当な報復をしたいと言ったとき、イエスは彼らを厳しく叱責されました(ルカ9章51-55節)。イエスは、ご自分が真に崇高な地位にあることを十分に認識しながらも、この世を完全な謙遜のうちに歩まれ、人の意見や期待に動じることを拒み、御父の意向に沿うことだけをお考えになりました(私たちはほとんど確実に何等かの反応を示してしまいますが;マルコ15章5節詩篇39篇1-3節を比較してください)。私たちの主は、「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ」る(ローマ12章2節)ということが、本当はどういうことなのかを、模範をもって示してくださったのです。

– 主の宣教に対する反応の悪さへの対処というプレッシャー:

(60)弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。(61)しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。(62)それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。(63)人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(64)しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。(65)そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。(66)それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。(ヨハネ6章60-66節)

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。(ルカ13章34節)

これらの箇所や他の多くの同様の箇所からわかるように、主は真理を受け入れないすべての人々に対して正直に不承認を表明しながらも、否定的な反応(詩篇118篇22節; イザヤ49章4節参照)に過度に、あるいは理不尽に苛立つことを決してお許しになりませんでしたし、主の宣教がしばしば巻き起こす表面的で一過性の肯定的な反応(ルカ11章27-28節; ヨハネ6章15節参照)に流されることもありませんでした。 何千人もの人がイエスの名によって「ホサナ」と歌っても、その後すぐに態度を変え、イエスの十字架刑を要求するのです(ヨハネ12章37節使徒行伝1章15節を比較)。 イエスは、人の中に何が本当にあるのかをよく知っておられ(ヨハネ2章25節)、人の反応やその反応の悪さによって影響されて、御父が御自身のために示された道から逸れてしまうようなことは決して許されませんでした。

<-30に続く>

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