イエス・キリストの生涯-28
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
i. 主のミニストリーの経過 : 4つの福音書を完全に釈義することはできないので、この文脈では、私たちの主イエスが引き受け、成功裏に完了させたミニストリーの簡単なあらすじを述べる以上のことはできません。ここで言えることは、福音書に記されているイエスの教えは、旧約聖書であれ新約聖書であれ、聖典の他の箇所に見られるすべての真理と一致し、その反映であり、それを映し出しているということです。さらに彼の奇跡は、神の子であるメシアとしての彼の地位と権威を示しています。最後に、その宣教の過程における行いは、私たち皆のために御父の御心を行うために、この腐敗した世界に喜んで遣わされた方の愛、犠牲、献身を明らかにしています。
一方では、福音書の内容はクリスチャンなら誰でも知っている(あるいは知っているはずの)ものであり、他方では、主の事件、たとえ話、講話のほとんどとは、言わないまでもその多くは、それ自体、詳細な釈義を必要とします(ですから、ここで簡単に考察してもほとんど意味がありません)。 従って、私たちはイエスの「受難」(つまり、十字架にかかるために走らなければならなかった試練)、十字架そのもの、そしてその後の出来事に進む前に、イエスの3年半のミニストリーの主要な出来事のいくつかを概観することに留めておくことにします。
1) イエスのミニストリーへの障害: その準備に必要な30年間の苦闘と、あらゆる普通の生活の放棄(例えば、私たちは結婚を控える犠牲と、肉体的な子孫を残す望みを過小評価すべきではありません)とは別に、私たちの主の十字架前のミニストリーは、多くの深刻なハードルの絶え間ない交渉を必要としました。 私たちは、イエスが私たちのためにこの世に来られ、完全な人生を送られ、完全な宣教をされることによって、どのようなことを耐え忍ばれたのか(私たちの罪を負われる十字架の前、特に十字架上でどのようなことを経験されたのかは別として)、おぼろげながら知ることができればと思うだけです。
a) 物理的な障害: ガリラヤとユダヤの領土を3年半にわたって旅し、御言葉を教え、癒しとその他の奇跡を通してその力を示しながら宣教することは、単に安楽椅子で福音書を読むだけでは容易に理解できないレベルの肉体的努力と労苦、そして精神的・感情的疲労を伴いました。弟子たちや支援者たちがどれほどの重荷を負おうと、あるいは負うことができようと、必然的にその重荷の大部分は、教えを行い、癒しを行い、あらゆる重要なレベルで宣教を管理する者として、イエスにのしかかったのです。 孤独と命令の重圧、教えと宣教に必要なエネルギー、宣教のあらゆる側面に注意深く目を配り続けるために必要な努力は、世界の歴史の中で他のどのような人も耐えられないほど、身につまされ、疲れるものであったに違いありません。そして同時に、もちろん、主はご自身の宣教の特徴である集中的な教えのために、あらゆる空き時間に絶えず準備をしなければなりませんでした。 このように、イエスの初期の準備生活がいかに困難なものであったとしても、イエスの公の務めは、その難易度を飛躍的に高めるものでした。私たちは、イエスがその数年間を「わたしの試練」(ルカ22章28節)と呼んでいるように、肉体的にも精神的にもストレスと緊張を伴うものであったことを垣間見ることができます。この表現は、特にイエスが敵対的な宗教権威から絶えず受けた[潜在的かつ最終的には]暴力的な反対という点で、その時期にイエスに課せられた途方もない要求を説明するのに役立ちます(例えば、マタイ12章14節; マルコ3章6節; ルカ6章11節; ヨハネ5章18節, 7章1節, 7章19節, 7章30節, 7章32節, 7章44節, 10章39節, 11章53節):
こういうわけで、わたしたちは、この[11章の]ような多くの証人[人と天使]に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪(特に、私たちに習慣的に影響を与えている罪)とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル書 12章1-3節)
<-29に続く>