イエス・キリストの生涯-20
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
e)キリストの誕生にまつわる出来事<iv>
4.<a> 星と賢者(マタイ2章1-18節):
神殿での主の初出の後、ヨセフとマリヤは主イエスと共に「自分たちの町」ナザレに戻りました(ルカ2章39節)。その後、具体的な理由は語られていませんが、一家はその直後に再びベツレヘムに戻りました。神のお告げがあったのかもしれませんし、マリヤとヨセフの先祖の町であるダビデの町が、メシアがよみがえるのにふさわしい場所だと自分たちで判断したのかもしれません。いずれにせよ、イエスが神殿で初出された後、彼らがナザレに短時間戻ったのは、ナザレにあった家屋を閉じ、引っ越しのために持ち物をまとめるためだったという仮説は、多くの示唆に富んでいます: マタイ2章11節では、マギは彼らを「宿屋」ではなく「家」で見つけており、このことから、一家は二度目の南下後、ベツレヘムに定住することを望んでいたのかもしれません(エジプトからの帰還後、ヨセフが最初にナザレではなくユダヤに住もうとしたことも、彼がベツレヘムにすでにあった新しい家庭に戻るつもりであったことを示唆しています)。[1] その頃、世の光であるメシアの誕生を告げる星を追って、マギたちが到着したのです[2]。
(78)これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の[光]が上からわたしたちに臨み、(79)暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へまっすぐに[歩ませる]であろう」。(英文直訳 ルカ1章78-79節)(イザヤ9章2節; マラキ4章2節参照)
イエスは世の光です(前述Ⅰ.4.b.18参照)。 聖書全体を通して、光は、特に闇と対比される時、力強い比喩です。 光は善であり(創世記1章3節)、光は真理であり(ヨハネ3章21節)、光は命です(ヨハネ1章4節)。闇とはこれらすべてのものがないことであり、真の光であるイエスが来られたのはこの世の闇の中でした。ですから、主の誕生を告げる光の星は、暗闇の中で輝いており、主の初降臨の象徴としてふさわしいのです。主だけがいのちであり、光であり、私たちを取り巻く闇の中にはっきりと見え、主の光のもとに来ようとするすべての人を引き寄せるのです。
(6)「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、(7)盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる(すなわち、肉体的、霊的な贖い)。(イザヤ42章6-7節)
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (ヨハネ1章4-5節)(参照:ヨハネ8章12節, 12章46節)
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 (第二コリント4章6節)
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。(ヨハネ1章9節)
しかし悲しいことに、主は全世界に光を与えるために来られたにもかかわらず、目を開いて真理の光を見ようとするのはほんの一握りです。ベツレヘムの星は、ユダヤ全土のはるか彼方まで見えていたにもかかわらず、それがメシアのしるしであることを認識するのは、ごく少数の異邦人に委ねられていたのです。このように、暗闇の中で輝く星が、メシアへの道、世の真の光への信仰による救いへの道へと導くというのは、イエスはご自身のもとに来られたにもかかわらず、その人々は概して、イエスを受け入れようとはしなかったという事実を表す、適切な比喩なのです。
イエスは御自身のところに来られたのに、御自身はイエスをお受けにならなかったのです。(ヨハネ1章11節)
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 (ヨハネ3章19節)
[1] 参照. Thomas and Gundry, A Harmony of the Gospels (Chicago 1978) p. 30 note o.
[2] したがって、羊飼いと東方の三博士の訪問がほぼ同時期であったという一般的な考え方は正しくありません。東方の三博士が去った直後に、家族はエジプトに逃れました(マタイ2章13節)。この事実から、ナザレへの最初の帰郷は、東方の三博士の訪問よりも前に行われたと理解する必要があります。ルカ2章39節は、家族がナザレに帰郷したのは、イエスを神殿で聖別した直後であったことを明確に示唆しています。
<-21に続く>