イエス・キリストの生涯-10

イエス・キリストの生涯-10

聖書の基本4A

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

e.位格的結合とケノーシス<iii>

                2) ケノーシスの期間中のキリストの神性の役割: マタイによるイエスの逮捕の記述の中に、私たちの主がその神性の使用を自発的に制限された性質について多くを明らかにする箇所があります。 ペテロが誤った熱心さのあまり、イエスを逮捕しに来た者の一人を剣で打った後、マタイは主が「それとも、私が父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今使わしていただくことができないと、あなたは思うのか」と言われたと伝えています。(マタイ26章53節)。 神でありながら、このような極端な状況においても、主は御父に敬意を示し、御父の計画を遂行するために謙遜で従順な態度を保っておられます。 イエスは実際にこの仮定の要請をされたわけではありませんが(ペテロや他の弟子たちのためにのみ発言されています)、しかし、イエスの言葉の強調された性質から、神の御子として、御父と同格、同位、同体であることを全く疑っておられなかったことがはっきりとわかります。 この驚くべき解放の可能性について、私たちの完全な主が絶対的な確信を持っておられることを考えると、イエスの人間性と、その人間性のためにイエスの神性が完全に用いられることの間に立っていた唯一のものは、初降臨の間、常に、イエスが遣わされた計画と使命に応じる、イエスの人間的自由意志の正しい行使だけであったことを、私たちは確認することができます。ですから、私たちがケノーシスと呼んでいる二つの性質の間の「障壁」は、神性によって「上から」押し付けられたものではないことを、私たちはさらに見分けることができるのです。この事実は、ケノーシスの制約に違反することなく、主がご自分の生涯を成功裏に全うされたことを、いっそう驚くべきものにしています(私たちの誰が、もし似たような「力」を持っていたとしても、それを使うことを控えることが現実的に期待できるでしょうか)。イエスは、ご自分が神であることを十分に知っておられましたが、上述した原則に反して、ご自分の人間性のためにご自分の神性に「アクセス」することはなさらなかったのです。それゆえ、私たちのために主が通過された屈辱は、罪からの完全な分離や、私たちによく知られているあらゆる方法での人間的自由意志の完全な行使をはるかに超えるものでした。また、神性を日ごと、瞬間ごと、試練ごとに自発的に使用することを控えるという完璧な自制心も必要でした。

イエスの神的本質から見ると、ケノーシスとは、栄光を受けるまで、イエスが人間になることで、物質的な存在となり、その物質的な人間性において全能を使うことを避けたことを意味します。 人間となることによって、イエスはご自身を時間に従属させ、その人間性において全知全能の力の使用を避けられました。 そして、人間になることによって、イエスはご自身を有限の空間に限定され、その人間性においてご自身の偏在性を避けられたのです。 このようにして生きられた人間的生活の代償と困難さは、適切に評価することはおろか、ほんの少しも理解することさえできません。 私たちに対するイエスの愛に限界はないということだけで十分です。 イエスの地上での33年間の生涯において、このような制約がどのような意味を持つかについては、イエスの神性の行使に対するこの制約がどのような境界の中で働いていたかを示す上で有益な二つの例に限って述べることにしましょう。

砂漠での誘惑の中で、サタンは主に石をパンに変えるよう命じました(マタイ4章3節)。イエスは40日間断食したばかりで、非常に空腹でした(マタイ4章2節)。文脈からすると、聖霊に導かれた断食と試練(マタイ4章1節)は終わったか、終わる寸前であったと思われます。 さらに、食べることはどのような場合でも正当なことであり、このような長く困難な断食の終わりには、より一層必要なことです。そして、イエスは、悪魔が提案したことを行うために、ご自分の神性を呼び起こすことができたのです。しかし、私たちは、ここでの主の言動から、そうすることが間違いであったことを知っています。なぜなら、このような異常にストレスのかかる試練の状況下であっても、ご自分の人間性のためにご自分の神性を用いることは、明らかに許可されていなかったからです。このような場合すべてにおいて、私たちの主は、あなたや私が間違いなく屈服したであろう点をはるかに超えて耐え忍ばれました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるのです」(マタイ4章4節)。言い換えれば、父なる神の御心は私たちの主にとって最も重要であり、主は守るよう課せられた制限に決して違反しませんでした。 もちろん、十字架に至る試練の前で主が耐え忍び苦しまれたことは、主がご自分が神であることを知りながら、その神性を利用することを控えるという緊張を抜きにしても、私たちの理解を超えています。

ケノーシスによって課された境界を示す第二の出来事は、ルカによる福音書4章16~30節にあります。主が彼らの不信仰を叱責された後(ルカ4章23-27節)、彼らは激怒し、主をつき落として殺そうと、町の崖まで引っぱって行きました(ルカ4章29節)。しかし、イエスは「彼らのまん中を通り抜けられて、去って行かれた」(ルカ4章30節)。これは確かに超自然的な力の使用を意味し、この状況とマタイ4章の状況との区別はこれ以上ないほど明確です。一つ目の場面においては、イエスは絶対的に必要でなかったにもかかわらず、ご自分の立場を楽にすることもできました。 しかし、この(二つ目の場面の)場合、もし主が群衆に主が崖から投げ落とされるのを許されたなら、メシアの死に方に関する預言は否定されることになり、私たちの永遠の救いも否定されることになります。

初降臨を通じて、この原理を見ることができます。つまり、主は御父の救いの計画を推進するために、御父の御心に従ってのみ、主に与えられた力と賜物を用いられたのです(例えば、聖書の成就による奇跡、癒し、死者のよみがえりなど)、 しかし、ご自身の不都合、必要、疲労、労苦、苦しみを和らげる可能性があるときには、いかなる形であれ、その神性の使用を控えられました。このように、私たちの主は、他の人々のためと弟子たちへのしるしのために水をぶどう酒に変えることは許されますが、ご自身のために石をパンに変えることは許されません。主は、他の人へのしるしとして、また御父のご計画を進めるために(必要な働きと祈りによって遅れて、弟子たちに追いつかれますが)、水の上を歩かれますが、それでも「歩く」のです。預言を成就させるために、神殿にあるとてつもなく重いテーブルを超人的な力でひっくり返すことができるのに、ゲッセマネでご自分を逮捕しに来た人々には何の防御もなさいません。適切な時に生け贄に捧げられる命を維持するために、群衆をかき分けて姿を消すことはできますが、十字架を避けようとはなさらないのです。

<-11に続く>

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