イエス・キリストの生涯-8

イエス・キリストの生涯-8

聖書の基本4A

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

e.位格的結合とケノーシス<i>: イエス・キリストは、その誕生の時点から、常に真の神でありながら、真の人間にもなられました。 キリストが今、神性と人間性という両方の性質を、その質も量も低下させることなく持っておられ、しかも一つの絶対的に唯一無二のお方であるという事実を正しく正統的に表現する場合、神学ではしばしば「位格的結合」と呼びます。この(少し理解するのに難しい)語句の初めの単語は ヘブル1章3節から来ており、その節では、人間性と神性という二つの性質からなる主は、「(父の)栄光の(まさに)輝き、その本質の真の姿」と表現されています。 この節の「本質」はギリシャ語の「ヒューポスタシスhypostasis」で、「ヒューポスタテックhypostatic」という形容詞の語源となっています。イエスは神の「栄光の輝き」ですから、イエスは神であり、父と御霊が共有する同一の本質を持っています。 しかし、真の人間として、イエスはその本質の「真の姿」(ギリシャ語の文字、χαρακτήρ)であり、このことは、私たちの主の人間性がその神の本質の完全な鏡または表現であることを意味します(ギリシャ語の文字は、例えば鋳造された硬貨の正確な刻印または印章を意味します)。 このように、ヘブル1章3節は、キリストの神性とキリストの人間性の間には、イエス・キリストが人間性と神性という二つの性質を持っているにもかかわらず、イエス・キリストという分け隔てない一つの人格の中に、人格の裂け目が全くない完全な調和と完全性があると教えているのです。幾分、専門的ですが、この記述は重要です。というのも、この複雑な真理の様々な部分を受け入れなかったために、過去も現在も(そして間違いなく将来も)[1]、多くの致命的な異端が生まれているからです。しかし、この概念を人間が理解するのは難しいことは言うまでもありません。というのも、私たちは神の神性とその本当の意味を完全に理解することはできないからです(ましてや、キリストというお方における二つの性質の組み合わせのすばらしさは一般論としてしか理解することはできません)[2]。 しかし、ここで私たちが少なくとも最初に理解すべきことは、このような個人的で戻ることのできない方法でご自分を人類に捧げることによって、私たちの主は、私たちがほとんど理解し始めることができないような方法で、私たちが主にとって特別な存在であるという最も明確で説得力のある証拠を私たちに与えてくださったという驚くべき真理です。

受肉以来、イエスの神性、人間性、そして二つの性質を併せ持つユニークな事実は、栄光を受けた今、比較的容易に理解できるかもしれません(例えば、黙示録1章12-20節でヨハネに現れたイエスの描写をご覧ください)が、イエスの最初の降臨の間、この二つの性質が共存していた方法について聖書が述べていることを考察する必要があります。 復活以降、主の神性と人間性が制限されたり、区分されたり、分離されたりすることはありませんが、主は初降臨の間、私たちと同じように苦しまなければなりませんでした(地上の生活のあらゆる面だけでなく、特に十字架上で私たちの罪のために裁かれたとき、私たちの苦しみをはるかに超える苦しみを通らなければなりませんでした)。 この神性による、神の人間性への関与における自己制限は、神学ではケノーシス(kenosis)として知られています[3](23)。これは、パウロがピリピ人への手紙で、私たちの主の犠牲的な生涯について論じた際に用いたギリシャ語です。:

(5)キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(6)キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、(7)かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(8)おのれを低くして、[私たち皆のために]死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ2章5-8節)

上記で「むなしうして」と訳されている単語は、ギリシャ語の動詞ケノー(κενόω)、「虚しくする」であり、神学用語のケノーシスは、これに由来しています。 次の聖句が明らかにしているように、この喪失状態は、私たちのために主が十字架上で犠牲の死を遂げるまでに、私たちのために大きな屈辱を伴うものでした。 明らかに、イエスが生涯を通して受けた、その多岐にわたる30年間の準備期間を経て高まる苦しみや虐待、「罪人らのこのような反抗を耐え忍び」(ヘブル12章3節ユダ1章15節参照)、私たちのために十字架にかけられるに至るまで耐え抜いた苦しみ、そして十字架上で闇の中で私たちのために負われた罪のための死は、イエスが自らに課す人間性ゆえの自己制限なしではその神性とは相容れないものでした。この状態は伝統的にはケノーシスと呼ばれています。    

上記の予備議論からわかるように、ケノーシスとは本質的に、イエスが御父のみこころに従って、初降臨の期間、人間として生きられるにあたって自ら、御自分の神性を使うことを自発的に控えた一連の「基本的な規則」のことです(ヨハネ4章34節; 5章30節, 6章38節)。


[1] 聖書の基礎:第1部:神学、II.A「三位一体の定義:神の本質は一つ、御格は三つ」の「三位一体とは何か」の項目で、過去のさまざまな異端についての議論を参照してください。

[2] 神の本質については、このシリーズのパート1である「神学」のI「神の本質:性質と特徴」で取り上げています。

[3] あるいは、「キリストの屈辱」とも呼ばれます。

<-9に続く>

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