イエス・キリストの生涯-4

イエス・キリストの生涯-4

聖書の基本4A

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

d-i. 旧約聖書の預言<i>: 私たちの主が肉体をとって来られることに関する旧約聖書の預言の大部分は、主のメシヤ性に焦点を当てており、したがって、少なくとも主の再臨がその対象よして含まれていると言ってよいでしょう。 このため、イエス・キリストの初降臨と再降臨は、神から与えられた言葉を書いた霊感を受けた著者らにとっても、謎に包まれた課題でした。

この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。 (第一ペテロ1章10-12節)

私たちの主が世界支配の王冠を受けるために来られる前に十字架上で死ぬために来られるということとつながりがあるのは、私たちの代わりに死ぬことができるように、主が真の人間になられたという事実と必要性です。 真の人間性を帯びる必要性は、世界を支配する神のメシアの栄光の出現には理論的には必要ないと主張されるかもしれませんが、私たちの主は、私たちの罪を背負う人間の体がなければ、私たちの罪のために死ぬことはできませんでした。(第一ペテロ2章24節, 4章1節; 第二コリント5章21節; ヘブル9章26-28節参照)。 これこそ、多くのユダヤ人にとっての「つまずき」であり、多くの異邦人にとっては永遠の妨げとなる「おろかなもの」なのです(第一コリント1章23節; マタイ21章42節 参照.詩篇118篇22-23節)。 しかし、メシヤが真の神であると同時に(再臨においてはっきりと見られる)真の人間であるという事実については、主ご自身がはっきりと述べておられます:

パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。[詩篇110篇1節]

イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。 (マタイ22章41-46節)

もしメシアが文字通りダビデの「子」であるならば、メシアは人間でなければならず、一方、イエスが引用した詩篇110篇1節でダビデがメシアを「主」と呼んでいるように、メシアが「主」であるならば、メシアは神でなければなりません。私たちの主のユニークな性質である神性と人間性の両方の要素は、人類を贖い、宇宙に永遠の平和を回復するという神の計画を達成するために不可欠です。メシヤが世界を支配するためには、メシヤが前もって罪の問題を取り除くこと、すなわち、悪魔を取り除き、私たちの贖いと救いの道を開く十字架上の死に対する勝利が必要だからです。メシヤが苦難を受けることは、もちろん、メシヤが真の人間性を持っているという事実なしには不可能なことですが、旧約聖書の中で教えられており、例えば、イザヤ書の52-53章(この抜粋で十分でしょう:)

(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(6)われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。(7)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。(8)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。(9)彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。(10)しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。(11)彼は自分の魂の苦しみにより[解放され、再び]光を見て満足する(すなわち、復活する)。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人(すなわち、信者たち)を義とし、また彼らの不義を負う。(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ53章4-12節)

実際、福音のメッセージ全体と、キリストが世の罪のために苦しまなければならない必要性は、たとえそのメッセージが十字架以前には消極的に受け取られ、十分に理解されていなかったとしても、旧約聖書全体を通してさまざまな形で教えられていました。 私たちの主イエスご自身が、エマオへの道で弟子たちにまさにこの点を述べておられます(参照:ルカ24章25-27節; 使徒行伝2章23節, 3章18節, 7章52節, 10章37節, 17章3節, 26章23節; エペソ3章5節, 3章9節; 第一ペテロ1章11節, 1章20節):

(25)そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。(26)キリストは必ず、これらの苦難を[まず]受けて、[それから]その栄光に入るはずではなかったのか」。(27)こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ24章25-27節)

<-5に続く>

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